趙及
- 字は希之。先祖は幽州良鄉の人。父の的は契丹に仕え蔚州靈邱令となったが、雍熙中に王師の北征の折に帰順し偃師令を授かりそのまま家を構えた。及は進士に挙げられ慈州軍事推官となり、廣信軍判官に徙り秘書省著作佐郎に改め魏縣知県となり、九隴に徙り母の老いにより葉縣税監となり、黄河・御河の催綱(漕運監督)を歴任、青州・大名府通判に累遷、尚書屯田員外郎に累遷、殿中侍御史に挙げられ宗正丞権として夏守恩の獄を詔で劾し、内侍の岑守中が賄賂で法を歪めていたことを劾正した。
- 侍御史に遷り、夏守贇が西鄙經畧使として帰任した際、及はその無功を樞府に再任させるべきでないと言上、郭承祐の團練使任命も罷めるよう疏じた。まもなく懐州知州を求め徐州に徙り、三司戸部判官に還任、兵部員外郎に遷り京東轉運按察使として莱州知州の張周物の貪暴を劾し嶺外に貶させた。兼侍御史知雜事として時政をしばしば論じ吏部流内銓判権となり、以前は銓吏(吏部官吏)が欠員を隠し選人と取引していたが、欠員が判明すると牓(掲示)を出すようになり、吏部の牓闕(欠員掲示)は及に始まった。
- 戸部副使に遷り病により刑部郎中に改め昭文館直として衞州知州、鹽鐵副使に召され、病により汝州知州を請い、歳が明けると再び副使に召されたが赴かず河中府知府に徙り天章閣待制・右司郎中に特拝され明堂の祭で右諌議大夫に遷った。大理寺・流内銓判に還任し徐州知州に出、病が篤くなり近職の解職を求め州事はそのまま管勾南京留司御史臺の任として着任前に卒した。及は和厚謙退で内行(家庭生活)が特に篤く、治めた土地では声望があり民吏に愛された。