宋史卷三百四 列傳第六十三 楊告

楊告

  • 字は道之。先祖は漢州綿竹の人。父の允恭は西京左藏庫使として数々の任務で功があり、死後、学究出身を賜られた。廬江尉に任じられた際、張景が吏を笞打ち死なせ、その吏が捕り手に急追され逃げ帰った際、告は納容を躊躇ったが「君は心配するな、私は死生を共にする」と述べ、景は結局免れた。豐城主簿に改め、縣で賊が人を殺し屍を江に投げ込む事件があり、犯人の名が知られていたが人々は畏れて言わず、告はこれを聞き自ら赴いて賊を捕えた。ある者が賊が復讐を企んでいると告げたが告は動じず、後日果たして夜に告を刺そうとした賊をまた捕え法に処すと境内は粛然とした。
  • 南劔州判官に再任し、南安・六合・錢塘・寧國縣を歴任した後、大理寺丞に改め江寧州通判となった。盗が商人を殺し舟を掘って屍を江に沈める事件で誣告された者が笞刑で自白し獄が成立していたが、告はその状況を疑い、数日後に果たして真犯人が捕えられた。池州に徙り累遷して尚書司封員外郎・開封府推官・開拆司判となり、趙元昊の旌節官告使(爵位・節度使任命の使者)として元昊が専席で尊大に振る舞う場面で告は徙って賓位に座り屈しなかった。
  • 京西轉運副使に除され、部内が飢饉に見舞われた際、赴任地ごとに公廩を発し富室に粟を出させ賑わせ、民が桑を伐って粟を得ようとしても売れずにいたため、告は酒官への評価を高くして給し民は多く救われた。病により西京留臺の管勾を求め、まもなく三司判に転じ理欠司由に憑って淮南轉運使、發運使に制置を改め、三司戸部副使を除され度支に転じ河東を安撫、鹽鐵副使に改め、祠部・度支・司封郎中を歴任、少府監として再び發運使制置となり右諌議大夫を拝命、鄭州知州として江寧府・夀州に徙った。告は法令に明るく財利をよく知り、苛刻を務めなかったため能吏と称されたが権貴に阿ることを好んだ。一子は学に力を入れ文才があり近臣に薦められ召試を経て進士出身を賜ったが、まもなく卒し告はこれを深く悲しみやがて卒した。