宋史卷三百四 列傳第六十三 周渭

周渭、字は得臣。昭州恭城の人(?–咸平二年、享年七十七)。若くして孤児となり、南漢の暴政を逃れて北上し、北宋建国後に出仕した地方官。清節で知られ、任地では民に慕われた。妻の莫荃は二十六年ぶりに渭と再会した賢婦人として知られる。

年表(5件)
  • 建隆初薛居正に礼遇され進士出身を賜り白馬主簿に任じられる
  • 乾德中興州通判となり暴虐な軍校を斬り衆を懾服させる
  • 開寳元年鳳州七房冶の主吏に代わり収益を数倍に増やす
  • 太平興国二年廣南諸州轉運副使となり二十六年ぶりに故郷昭州へ戻る
  • 咸平二年真宗に召還されようとしたが詔が下る前に卒す。享年七十七

周渭

  • 字は得臣。昭州恭城の人。幼くして孤児となり諸父に養われ、力学して詩を得意とした。劉鋹(南漢)が五嶺を拠点とし昭州もその地であった頃、政は繁く賦は重く民は生きるすべがなかった。渭は郷人六百人を率い嶺を越え零陵に避難しようとしたが、着く前に賊が起こり道を断ち糧を絶ったため恭城に戻ると廬舎はすでに焼失していた。道州に逃れたが盗に襲われ、渭は身一つで北上した。
  • 建隆初、京師に至り薛居正に礼遇され、上書して時務を論じ召試を経て進士出身を賜り白馬主簿に任じられた。縣の大吏が法を犯した際、渭は即座に斬った。帝はその才を奇とし右贊善大夫に擢した。魏帥の符彦卿が専恣であった頃、朝廷は常參官の中で強幹な者を選び属邑に赴かせ、渭を永濟縣知県とした。彦卿が郊迎(郊外での出迎え)した際、渭は馬上で拱手し、彦卿が館に至って初めて相見え、渭は少しも屈することがなかった。縣に人を傷つけて逃げた盗があり、渭はこれを捕え匿った者ともども誅し府に送らなかった。
  • 乾德中、興州通判となった。州は罝口砦を領し戍兵が多く、監軍が敖狠(横暴)で下を暴虐に扱い居人が苦しんでいたが、渭は馳せて禍福を諭しその軍校を斬ると衆は懾服した。詔で嘉奬され本砦鈐轄を兼ねさせられた。開寳元年、鳳州七房冶の主吏が官銀を盗み隠していたため渭を選んで代わらせると一年で羨課(収益)が数倍に増え緋魚を賜り、棣州知州に遷った。殿直の傅延翰が監軍として乱を謀り契丹に走ろうとした事件を部下の告発で渭が擒え、械にかけて闕下に送り取り調べの結果西市で斬られた。渭は郡にあって簡肅と称され、帰任の際は吏民が道を遮って涙を流し慰留し、まもなく詔で銭百万を賜った。
  • 太平興国二年、廣南諸州轉運副使となった。渭が中原に入った時、妻子は恭城に残っていた。開寳三年に廣南平定後、昭州へ詔で銭米を賜り存恤するよう命じられていたが、この時に渭は初めて故郷に戻り郷人に栄誉とされた。渭は劉鋹時代の税筭の繁雑なものを廃し田賦を重定し学校を興し、殿中丞に遷った。交阯(ベトナム)に事があった際、主将が逗撓(怠慢)で功がなく、二人の敗卒が甲を着け邕州に先に至り民の銭を奪ったのを渭が捕え斬ると、後から来た者はすべて甲を脱いで入城し犯す者がなかった。書を交阯に送り朝廷の威信を諭し再挙の意を示すと、黎桓(大瞿越国王)は懼れて使者を入貢させた。監察御史を加えられ、嶺南に凡そ六年在任した。
  • 揚州知州に徙り殿中侍御史に進み、両浙東西路轉運使に改め、三司鹽鐵判官に入り侍御史に遷り、戸部・度支二勾院を判官し亳州知州に出て金紫を賜り、宋州に任じられ職方員外郎を加え益州轉運使となったが、従子(甥)が詔に違反して馬を市したことに連座して彰信軍節度副使に降された。咸平二年、真宗はその清節を聞き召還し再登用しようとしたが、詔が下る前に卒した。享年七十七。帝はその貧しさで葬れないことを憐れみ賻銭十万を与え、子の建中を乗氏主簿とした。
  • 渭の妻の莫荃は賢婦人であった。渭が北へ走った時、荃と別れを告げる暇もなく、二子はまだ幼く荃も若かったため父母は再嫁させようとしたが、荃は泣いて誓い「渭は久しく困窮する者ではない、今は難を避けて遠く赴いているが必ず自ら奮起するだろう」と述べた。以来、自ら蚕を養い機織りと臼つきで日々の生活を支え、二子はともに結婚を果たした。二十六年を経て渭と再会した際、当時の人々はこれを異事として驚いた。朱昻が「莫節婦傳」を著してこの事を記した。