宋史卷三百三 列傳第六十二 胡順之

胡順之

  • 字は孝先。原州臨涇の人。進士に及第し秘書省校書郎試を経て休寧縣知県となった。汪という姓の豪族が横暴で県では制御できず毎年の租賦が入らない中、訴訟に逮捕されても出頭しないのを、順之は「令が行われなければ何をもって政となすか」と述べ、薪を積んで周囲を囲み焼こうとすると豪族は大いに驚き、少長がみな駆け出し叩頭して罪を認めた。その長を推し械にかけ州に送り法に処した。
  • 青州從事となった際、髙麗が入貢し中貴人(宦官)がこれを利用して権勢を誇示し州官に郊外で拝礼させようとしたが、順之は「青州は大鎮であり唐では新羅・渤海を押さえていた、なぜこれほど卑屈にならねばならぬのか」と述べ独り拝礼を拒んだ。大姓の麻士瑤は密かに貴い侍臣と結び兵械を隠し尚方(宮廷の器物)を模した服用品を持ち、親族・使用人が多く州県は陵蔑され誰もその奸を発することができなかった。士瑤が兄の子の温裕を殺した事件で母がこれを州に訴え、衆が「誰が捕えに行けようか」と言う中、順之は檄を持って直行しその一党をことごとく捕え、詔で審理され士瑤は死罪となりその子弟で流放された者は百余人に及んだ。
  • 著作佐郎に改め常熟縣知県、秘書丞に遷り分司南京となった。仁宗即位で太常博士に遷り、天聖・明道年間に再度宰相への上書で太后の還政を乞うたが、宰相はこれを匿して上聞させなかった。太后が崩御した後、順之は病を押して自ら告げ書を宰相家から出させた。仁宗はその忠を嘉し尚書屯田員外郎に特遷させた。その後もしばしば朝廷の事を論じ、范仲淹はその才を愛したが、術策を挟み権を尚び縦横捭闔を好んだため目が失明し廃された。州里はこれを畏憚したという。