宋史卷三百一 列傳第六十 袁抗

袁抗

  • 字は立之。洪州南昌の人。進士に挙げられ同学究出身となり陽朔縣主簿に任じられ、桂州司法參軍に補せられた。撫水蛮が融州を寇した際、轉運使の俞獻可の檄により抗は融州推官を権知し兵糧を督して軍事を謀った。蛮が舟を治め攻め寄せる中、抗は楊梅・石門の両隘に水柵を建て要衝を押さえ、事平定後も戍を置いて廃さなかった。
  • 衡州推官に特遷し大理寺丞に改められ、国子博士に累遷し南安軍知軍、廣南東路刑獄提点に擢された。浙東の叛卒が鄂を鈔し閩越を経て南海に転じ広州兵と海中で逆戦し大風に見舞われた際、部下の鄰が溺死したと告げる者があったが、抗は独り「今日の風勢は占城に向かった、鄰は必ずしも死んでいまい」と述べ、後に果たして占城で鄰を得て帰った。
  • 度支三司判官に転じ、尚書金部員外郎として梓州路轉運使、益州路に徙った。三司が歳に上供の綾錦・鹿胎万三千疋を市していたことに対し、抗は蜀民の困窮を訴えその半減を求め、その年の郊祀で数を半分蠲除された。黎州が歳に蛮馬を売っていた際、戦に堪えぬ馬を却下する詔があり、抗は「朝廷が蛮夷と互市するのは利を取るためではない。金山の前後五部落はこれを衣食としており、一朝で利を失えば侵侮の代償はいくらの馬にも及ばぬ」と奏し、詔を奉じなかった。
  • まもなく旧制に復し、江淮發運使に除され、召されて三司鹽鐵副使となったが老いており御史に劾されて宣州知州に罷免され、光祿少卿・分司南京に累遷、明堂の恩により少府監に改められ卒した。抗は蔵書を好み一万巻に及び江西の士大夫の家にも及ばぬほどであった。子の陟は少くして刻厲で学を好み詩に優れ殿中丞に終わった。