郭稹
- 字は仲微。開封祥符の人で世は鄭州に寓居した。進士に挙げられ甲科で河南縣主簿となり、国子監直講に除されたが議者はその資歴が浅いとして罷免され河南に戻された。その頃、孫奭・馮元が判監事となり稹の学問が博通であると奏し、他に選ぶべき者がないとして二年間留まらせた。
- 陳堯咨が大名知府となり判官府事に招かれ、大理寺丞に改められた。奭らが再び直講に薦め、奭が兖州知州に出ると更に稹と賈昌朝を中書に薦め講説を試させたが、稹は固辞して召試により学士院で集賢校理となった。馮元が河陽知州となり通判に招かれ、河南府通判に徙り三司度支戸部判官に入った。尚書刑部員外郎に累遷し起居注を同修、康定元年に契丹に使者として派遣され西鄙の用兵を告げると、契丹は厚礼をもって遇し狩猟に同行させ稹に射させると一発で兎を射止め、契丹主は自らの乗馬などを厚く贈った。
- 帰国後、兵部知制誥に転じ吏部流内銓を判官し、龍圖閣直學士・開封府知府に擢されたが風眩を発し卒した。稹の性は温和で文思敏贍、賦を作るのに刻意し経語を用いた対句を好み諧謔に近く、古書画を収集する際は代価を問わなかった。妻の張氏は嫉妬深く子がなかった。稹は幼くして孤児となり母の邊氏が王氏に再嫁したが、母の死後に稹は解官して喪に服し、これを礼院が知り宋郊が「稹の服喪は過礼」と言ったため詔で有司に議させ、馮元らの奏により解官・心喪を聴された(詳細は礼志にある)。
史論
- 邉肅は邢州を守るに疲弊した兵で敵を退け、門を開いて避難民を受け入れた功は朝廷に及んだ。馬元方は并州で慰留の命を受けたほどで、その民に対する善政は明らかである。李宥は蘄州で飢民を救い江寧府では冤獄を正した、良吏と言えよう。ただしいずれも小さな過失なしでは済まなかった。楊日巖・李行簡は政に臨んで見るべき点があり、張秉・張擇行・鄭向・郭稹は瑕疵は指摘できないもののやはり赫々たる名声はなかった。梅詢は呂夷簡を厚遇したことで貴顕に至り、寇瑊・章頻は丁謂に善くして共に斥謫を被った。固より論じるに足りない。陳琰が丁謂を奸邪とし用いてはならぬと言ったことは、南郊の恩で丁謂が復権しようとした際、唐の袁高が盧杞を執拗に論じたことに酷似しており、識者はこれを立派だとした。