宋史卷三百一 列傳第六十 李宥

李宥

  • 字は仲嚴。唐の後裔で呉から青州に移り青州の人となった。祖父の成は五代の末、詩酒をもって公卿の間を遊び、山水を描くことに長け、得意の作は筆墨によるものとは思えぬほどであった。求める者があれば先に酒を用意させ、酔って筆を落とすと烟景万状、世に珍重されたと『儒林傳』に見える。
  • 宥は幼くして孤児となったが遊びを好まず、成長して読書し文を作り、交遊を雑えなかった。進士に挙げられ火山軍判官に任じられ、館に入り書籍を校勘し、集賢校理に遷り院の直となって蘄州知州となった。飢饉の年、人々が嬰孩を捨てて逃げる者が道に相続いたため、宥は吏に収容させ人口を計算して穀を給し、乳母に均しく養わせ、旬ごとに視察し多くの子供を救った。ある者が人を殺して米十石を得た傭者を訴え出るよう命じ「我が吏に賄賂を厚くすれば必ず死なぬはずだ」と言ったが、宥はその実情を得て法通り論じた。
  • 提点荊湖刑獄・戸部判官権判、利州轉運使・戸部勾院判、知制誥として在京刑獄を糾察し、太常寺同判となった。旧来の宗廟五饗は輔臣が代行することが久しく廃れ従官が差されるのみだったが、宥は対面でこれを力言し旧に復した。諫議大夫として江寧府知府となった際、人の子を殺したと告げる民があり「私の子が出た時は巾若の巾だったが、この巾がそれだ」と言ったが、民は自ら誣告を認め、宥は疑って再度問い最終的にその冤を晴らした。府舎で火事が起きた際、宥は兵乱を畏れ門を閉じて消火させなかった罪で祕書監致仕に降された。分司南京に起用され、太子賓客・留司御史臺判に改められ卒した。
  • 宥の性は清らかで謙虚、物と争わず士人の抜擢を好んだ。外族が甚だ貧しかったため宥は別業を劵で与え、死後家に余財はなかったが官から銭十万を賜った。