宋史卷三百一 列傳第六十 章頻

章頻

  • 字は簡之。建州浦城の人。弟の頔とともに進士として礼部試に臨んだが、詔で兄弟が並んで挙げられることを禁じたため頻はその弟に譲り立ち去った。六年後にようやく及第した。
  • 秘書省校書郎試から南昌縣知県、大理寺丞・九隴縣知県に改められ、殿中丞に遷った。眉州の大姓孫元世が偽の劵を作り族人の田を奪い長らく明らかにならなかった事件で、轉運使の命により調査した頻は劵の墨が朱の上に浮いていることから「先に印を盗み後に書いたものだ」と看破し、罪を認めさせた。獄が上奏される前にその家人が転運使に再訴し、更に華陽縣知県の黄夢松に覆審させたが異なる結果は出ず、夢松はこれにより入朝して監察御史となった。頻は獄を速やかに具えなかった罪で慶州酒監に降され、長洲縣知県に徙った。
  • 天禧初、諫官・御史を十二人増置した際、頻は選ばれて召対に応じ帝の意にかない監察御史に擢された。陳州・亳州の間で民が兵乱の訛言を流し老幼が奔命した際、京西の安撫からの帰路これを鎮めた。三司度支判官となり、青州の麻士瑤が甥の温裕を殺しその財を奪った事件を按治し士瑤は誅せられた。また卭州牙校が塩井をめぐり訴えた事件で、皇城使の劉美が皇后の一族の威を借り賄賂を受けて人に獄を市らせていたことを頻が捕縛を請うたが、真宗は皇后の縁故で不問とした。頻はこれに逆らって宣州に出、殿中侍御史に改められ侍御史に遷った。
  • 頻は丁謂と親しく、謂が貶されると尚書比部員外郎・饒州酒監に左遷されたが、信州知州に起用され刑部員外郎に進み福州知州となった。王氏(閩国)の時代には民の官田に租税のみを課していたが、これを売却すれば銭二十余万緡が得られるとの議に頻は上書して不可とした。潭州知州に徙り廣西轉運使に改め、宜州守の貪暴不法を摘発したが罷免された後に反訴された。頻の子の許は嘗て刑を受けたのに冒って秘書省校書郎として奏挙されており、頻はこれに連座して饒州知州に貶されたが、また度支判官に戻り刑部郎中に累遷、契丹への使者として紫濛舘に至り卒した。契丹は内侍を遣わし舘で奠祭し、接伴副使の吳克荷に喪を護らせ、錦車に槖駝を用いて中京まで運び、銀で棺を飾り鼓吹羽葆を具え吏士が甲兵を持して護送し白溝に至った。詔で子の訪を乗傳して柩を扈従させ帰国させた(訪は三班奉職の官である)。