楊日嚴
- 字は垂訓。河南の人。進士及第し秘書省校書郎試を経て安邱縣知県となり、三司に招かれて検法官となった。大理寺丞・大理寺検法官・都進奏院監、亳州・陳州通判、吏部南曹判・登聞鼓院兼を歴任、襄州・廬州・鄲州知州、開封府判官として契丹への使者から帰り両浙轉運副使となった。
- 未赴任のうちに青州・徐州の飢饉で京東轉運使に改められ、江淮・陝西から粟五十万を運んで貧民を賑わせるよう請い、また清河八十里を開いて暖水河に至る堤を築き倉廩を起こして&KR1193;運(運送)の便とし、直史舘を加えられ益州轉運使に徙った。江淮制置發運使に徙り、三司戸部・度支・鹽鐵の副使を歴任、太常少卿に累進、右諫議大夫・集賢院學士として河中府知府、樞密直學士として益州知州となった。
- 元昊討伐で三司が財用を急いだ際、戸籍を十等に分け賦役を課す詔が下り、また民が歳租として占佃した官田廬について高く見積もり銭を輸させて自らの所有とすることが議されると、日巖は民を苦しめるとして反対した。陝西が益梓利路の渓洞の馬を市に収めるよう奏したが実際には馬がなかったため、日巖はこれをすべて奏罷した。
- 三班院・通進銀臺司知に遷り、後任の政が不便であると聞くと、蜀人からの進言に対しても「遠方は無理に法を変えず安撫するのが宜しい」と従容として述べた。給事中に遷り、龍圖閣學士として澶州知州、召されて権知開封府となったが、囚を械にかけて厳しくせず囚が自殺したため罷免された。太常司農寺判、審官院同知を経て卒した。日巖は初め益州轉運使としては特に治績はなかったが、益州知州となってからは蜀人に大いに信愛された。兄の日華は太常少卿・三司副使に至った。