治績と気骨
- 司馬池、字は和中。晋の安平献王司馬孚の後裔と伝わる。夏県の人。父の死後、財産を諸伯叔父に譲り自ら学問に励んだ。塩の輸送路を巡り「近道ではなく遠回りの道に理由があるはず」と予見し、実際に山水の暴発で従来の道が水没して人々を驚かせた。
- 進士に及第する際、母の訃報を友人が隠していたが胸騒ぎがして号泣して帰郷。永寧主簿として県令の横柄を正した気骨で知られる。建徳・郫県の尉を経て、光山県知事では竹木調達の期限を独自に定めて円滑に処理。
- 羣牧判官として、枢密使曹利用が負う進馬代金を率先して納めさせ、利用の不正糾弾では巷説に流されず公正を主張。開封府推官、耀州・鳳翔府の知事、知諫院。仁宗に「人はみな昇進を望むが、池だけは退くことを望む」と評された。
- 岐陽鎮の巡検兵の不祥事を穏便に処理。尚書兵部員外郎兼侍御史知雑事として、陝西の武将劉平の危険な用兵を予見(後に的中)。同州・杭州の知事を経て虢州へ左遷。晋州で没す。子の旦・光(別に伝あり)、従子の里。
司馬旦
- 司馬旦、字は伯康。清直で敏強、小事も慎重に判断。鄭県主簿として長年の田訟の腐敗を正し、豪強を法で処断。天大旱の祁県では富者に開放を促して飢饉を救い、宜興県では訴訟の弊風を改め、常州の大溪の橋を復旧。
- 王安石が常州で運河開削のため民夫を徴発した際、期日を急ぎすぎる弊害を諫めたが聞き入れられず、大雨により民の自経死が相次いだ。梁山軍・安州の知事、熙寧八年致仕。弟の光と終始友愛深く、光が門下侍郎に召された際、大義を説いて就任を促した。信義を重んじ困窮者を助け、恩を受けた者が女を妾に差し出そうとした際は驚いてこれを謝絶し、妻の持参品でその女を嫁がせた。三子あり、宏の子が朴。
司馬里・司馬朴
- 里、字は昭遠。鄜州通判として上官の不法に正色で諫言。廉静質直で治績あり。
- 朴、字は文季。外祖父范純仁の下で育ち、七歳にして進士のごとき応対をした。父宏の死に際し徒歩で柩を負い帰郷。金軍の汴京侵攻の際、二人の酋長に使者として赴き父の縁で厚遇され、和議を説いた。欽宗の信任厚く兵部侍郎。二帝の北遷に際し趙氏の存続を訴え、金人に憚られ北へ拉致された。徽宗崩御に際し斬衰の喪に服し、金人も義とした。後に真定で没し、忠節を称え兵部尚書・謚「忠潔」を追贈された。