宋史卷二百九十七 列傳第五十六 段少連
生涯の概要
- 段少連、字は希逸。開封の人。崇陽県の知事となり、前任の張詠の治績を継承。両浙観察判官、著作佐郎を経て蒙城・名山・金華の三県を治める。
- 劉従徳の遺族への過剰恩賞に反対し降格・監漣水軍酒税。太后崩御後、殿中侍御史として孔道輔らと共に郭皇后廃位に反対して伏閤上疏。二度にわたり長文の上疏を行い、皇后廃位が執政大臣による専断であり、天下に告げず宗廟にも報告しない処置は不当と厳しく批判した。
- 開封府判官、三司度支判官を経て両浙転運副使となり、旧来の煩雑な簿書検査の方式を改め不正を防いだ。秀州の冤罪死刑事件を単身で赴き解決。淮南転運使、陝西転運使を歴任。
- 陝州知事柴宗慶の不法を弾劾。度支三司副使、天章閣待制知広州。元昊反乱時、范仲淹の推薦で将帥として涇州・渭州の知事に任命されたが、赴任前に没した。
史論
古人が言うように、山に猛獣がいれば人は薬草採りにさえ入らない。天聖・明道年間、天子が若く母后が臨朝しながらも内外が粛然として大過なく済んだのは、言路に人材を得ていたからである。孔道輔・鞠詠・劉隨・曹脩古が相次いで諫官・御史となり、郭勸・段少連がこれに続いた。皆おおらかに正色を保ち、事に当たっては敢えて言い、たとえ左遷されても節を曲げなかった。仁宗親政後、孔道輔・郭勸・段少連は再び言責を任され、郭皇后廃位に慷慨して議論し、天子の逆鱗や大臣の反発を恐れなかった。その気概は益々盛んで、遺風は今なお天下に称えられている。『詩経』にいう「邦の司直」とは、まさに彼らのことであろう。