宋史卷二百九十六 列傳第五十五 查道

経歴

  • 查道は字を湛然といい、歙州休寧の人。祖查文徽は南唐で工部尚書。父查元方も李煜に仕え建州観察判官となった。宋軍が金陵を平定した際、盧絳が歙州に拠って檄を伝えたところ元方は使者と盧絳を斬って擒とし、太祖はその功を賞して殿中侍御史・泉州知事とした。
  • 道は幼くして沈嶽で無口、文徽に特に愛され、冠を着ける前から詞業で知られた。母に孝を尽くし、母が病で鱖魚の羮を求めた際、厳冬で入手できなかったが河に泣いて祈り氷を割って魚を得た逸話、臂を刺して血で仏経を写した逸話が伝わる。母の死後は名利を絶ち、五台山で出家しようとしたが、雷が柱を破っても動じなかったことに寺僧が驚き仕官を勧めた。
  • 端拱初、進士高第で館陶尉。曹彬の徐州鎮守に招かれ従事、興元観察推官に転じ、寇凖の推薦で著作佐郎。淳化中、蜀で寇乱が起きた際、遂州通判として招かれ、太宗の御書を出して課績を記録させ実俸給を用いた。至道三年(997年)両川の使者にその公正清潔さを報告され秘書丞に抜擢、杲州(果州か)知事。
  • 巌谷に潜んだ賊党の首領何彦惠が二百余人を集め武装抵抗する事態に際し、招諭の詔が届く前に発兵を求める声が多かったが、道は「彼らは愚民、罪を恐れて時を稼いでいるだけだ、その中に誣告された者もいるだろう」として微服単馬で赴き、恐れる賊衆を前に泰然と胡床に座して詔意を説き、投降させて農に帰らせた。璽書で褒められ、咸平四年(1001年)帰任し緋魚を賜った。
  • 転運使副の職務が財務監督にとどまり地方官の廉潔を糾すべき役割を果たしていないと上言し、使者巡回後に薦挙すべき者・弾劾すべき者の実績を朝廷に具申し賞罰に反映させる制度を提言、採用された。寧州知事、賢良方正科の推挙で李宗諤の推薦で対策第四等、左正言・直史館、西京転運副使。
  • 咸平六年(1003年)三司使の副使分置に伴い工部員外郎・度支副使・金紫。儒雅で治政に迂遠な性格で、鹽鉄副使卞衮が対問の際に道に無断で連署を求め、道は事情を知らず答えられず罷免され、襄州知事。処罰されても弁明せず不満も見せなかった。
  • 大中祥符元年(1008年)直史館・刑部員外郎、冊府元亀編纂に参与、兵部員外郎で龍図閣待制、張知白・孫奭・王曙と共に任命、刑部郎中を加え吏部選事判・在京刑獄糾察、契丹への使者を務めた。長く要職にあり右司郎中に進み、真宗の講筵に李虚己・李行簡と共に馮元の易講に侍った。
  • 天禧元年(1017年)耳が聞こえにくくなったため外任を求め虢州知事となる際、龍図閣で餞別の宴を賜った。秋の蝗害で州の飢饉に対し官の廩米を用いて賑済し、粥を施し種麦四千斛を配って一万余人を救った。天禧二年(1018年)五月卒去。子の查循は乗傳で喪事を治め、大理評事に任じられた。
  • 淳厚な性格で犯されても争わず、胥吏の過失も笞罰せず、貧しい訴訟者の負債を自分の銭で肩代わりすることもあった。巡察の途中で見た良い棗を摘んで代金を木に掛けて去った逸話、幼少期に地面に大きな邸宅を描いて「これは孤児遺児に分け与える」と遊んだ逸話がある。京師では貧しくとも一族の孤独な者を多く扶養し、俸給を全て散じた。若い頃、進士に赴く旅費がなく親族が銭三万を集めた縁、父の友人呂翁の娘の縁談を援助した逸話などが伝わる。囲碁を好み仏典を篤く信じ、質素な生活を送り、五十七歳で没すると夢見た神人の予言に反して六十四歳まで生きたことは「積善の余慶」と評された。著書『集』二十巻。従兄に查陶がいる。

查陶(字大均)――経歴

  • 查陶は字を大均といい、はじめ李煜に仕え明法科で及第、常州録事参軍。宋帰順後に大理評事試を経て寺丞・大理正、侍御史を歴任し大理寺権判。仲禹錫との訴訟で用法の当否を巡り抗弁し正当性を認められた。工部郎中に遷り台州知事、兵部を経て咸平五年(1002年)宋博が大理議で趙文海の罪の当否を巡り論争した際、宰相が陶の代任を求めたが真宗は「陶も深文(法を厳格に適用しすぎること)と聞く、戒めよ」と述べた上で秘書少監・寺事判に任じた。
  • 楊億が審刑院知院の際にその失を攻め代任、金紫を賜る。用刑が厳しく失当が多く、前後で罰金百余斤を科され、いずれも「入れ過ぎ」であって「出し過ぎ」(寛大すぎ)はなかった。景徳三年(1006年)卒去、享年七十。子の查拱之は淳化三年進士で都官郎中、査慶之は太子中舎。

史論

  • 典誥命(詔勅の起草)を掌る者は詞章の典雅さを、侍講読を務める者は道徳の該博さを重んじる。いずれの才も稀であり宋では特に重視された。太宗は儒術を崇め、政務の合間に読書を楽しみとし翰林侍読学士を設けて顧問に備えた。真宗はこれを継ぎ侍講学士を併置し、内閣を通じて優れた学者たちを交代で侍らせた。
  • 韓丕の清介、師頑の和豫、梁顥の明敏、張茂直の淳厚は詞職を担うにふさわしく、呂文仲の器韻淹雅、潘慎修の醞藉該貫、杜鎬の博聞強記、査道の純孝篤義は左右に置いて益するところが大きかった。呂祐之の趨競を好まぬ姿勢、楊徽之の幸進を深く憎んだ姿勢も卓然たるものであり、楊徽之が「温仲舒・寇凖が搏撃で貴位を得たことで後進が趨競に流れ、風俗が薄くなった」と語った言葉は、君子の名言と評されたと結ぶ。