出自と経歴
- 葉清臣は字を道卿といい、蘇州長洲の人。父葉参は光禄卿。天聖二年(1024年)、知挙劉筠に策文を高く評価され進士第二を得た(宋代進士が策文で高第を得るのは清臣が初とされる)。太常寺奉禮郎・蘇州観察判官書記、光禄寺丞・集賢校理、太平州通判、秀州知事、三司戸部勾院判・塩鉄判官を歴任。
- 九つの施策を建言:巡行使の派遣、太学の振興、公卿子弟の学生補任、県令の重視、明経科での大義重視、流外官の入仕制限、武臣の三年の喪の許可、僧の得度制限、条約の簡素化。宣州知事、太常丞・同修起居注・三司塩鉄勾院判・直史館を歴任。
- 京師の地震に際し「天は陽の動、君の道なり。地は陰の静、臣の道なり。今この道理が乱れて地震が起きた」と論じ、定襄でも同日に震動があり五日間続いた惨状を伝え、熒惑(火星)が南斗を犯すという天変も重ねて起きたことを踏まえ、范仲淹・余靖が言論により黜されて二年になることを機に「言路を開き敢言の士を用いるべき」と諫めた。この上奏後数日で仲淹らは近い地への転任が許された。
- 直言を求める詔に応じ大臣の専政を批判する上疏を送り帝の嘉納を得た。両浙転運副使として太湖沿岸の豪右による水利独占を是正し、盤龍匯・滬瀆港の疏通で農地を潤した。右正言・知制誥・審官院知院・国子監判を歴任。
- 陝西用兵に際し「将帥は平素蓄えられておらず、兵は訓練されておらず、財に長期の蓄積がない。西北の二垂を見れば大瓠が中空であるかのようだ」と論じ、羌戎の脅威が続く中、油断すべきでないと説いた。
- 延州の囲みが解けた後、鈐轄内侍盧守勤と通判計用章の間で責任を巡る争いが起きた際、清臣は「守勤は范雍の前で泣いて逃げの計を求め、用章は退保を主張したが康伯は死守を主張した」との経緯を精査し、守勤が保身のため事実を歪めて用章に罪を転嫁したと弾劾し、文彦博に公正な取調べを求めた。
- 三司使公事権を経て起居舎人・龍図閣学士。編纂の簡素化、内東門御厨の内侍による恣意的な出納の是正など財政改革を実施。宋庠・鄭戩と親交があり呂夷簡に忌避され、江寧府知事に出された。
- 翰林学士・通進銀臺司知院・三班院勾当を経て父の喪に服し、服除後、宰相陳執中に忌避されて邠州知事に出るも澶州に転じ、尚書戸部郎中・青州知事・永興軍知事として三白渠を浚渫し六千頃余の農地を灌漑した。
- 仁宗の急務諮問に対し極めて長大な条対を上疏:奔競(権門への阿諛)の風を宰相自身が正すべきこと、御史が本来の耳目の機能を失い宰相の腹心となっている実態、宮中に犬を飼う逸事で処罰されず逆に昇進した宋禧の例、湖南江西で苛虐を働いた王逹が縁故で優遇された例など、権門への奔競を厳しく批判した。
- 翰林学士・権三司使に任じられ(三司使権使公事の格式を初めて三段階に整理)、皇祐元年(1049年)の対策で「二十八年に及ぶ在位の間、辺患が絶えないのは将相の人材不足による」と論じ、王商(漢代の名臣)や郅都の例を引きつつ、慶暦初の劉六符(契丹使)来朝時の失策を批判し「西夏討伐を名目に契丹から要求があれば厳に対処すべき」と説いた。
- 将帥候補を具体的に列挙:輔翊の忠義では富弼、社稷の固さでは范仲淹、故事に通じることでは夏竦、議論の敏さでは鄭戩、方面の才では韓琦、大事の決断では田況、剛果さでは劉渙、宏達な方略では孫沔、偏裨の器として王徳用・范仲淹・龐籍・狄青・范全・蔣偕・張亢・劉貽孫・王徳基らを挙げた。
- 施昌言・賈昌朝の対立による軍儲不足を批判し、内帑の活用と爵位を上げて豪民に粟を出させる策を提言。監牧の馬(九万頃余の田で年百万緡の経費、実際の馬数は三四万に過ぎない)の非効率を指摘し、河北・河東・陝西・京東西五路の上戸に一馬、中戸二戸に一馬を課す代わりに一丁の徭役を免ずる策を提案。
- 河北の乏兵食に対し汴河から七十余万石を輸送し、大名庫銭の発用を求めたが安撫使賈昌朝が詔に従わなかったため清臣が固く争い、その跋扈を疏したが、宰相が両者を両成敗する形で賈昌朝は鄭州に、清臣は侍読学士・河陽知事に左遷され、そこで卒去。左諫議大夫を追贈。
- 天資英邁で事に当たり敢行し、屈することがなかった。郭承祐の妻(王元偁の女、封郡主)への月給増額要求について仁宗が承祐の功績を理由に増額を許そうとした際「これは僥倖に過ぎない」と拒み、自らその奏を袖に収めて行わなかった。天下事を論じた上書多数、「九議」「十要」「五利」を著し、著書『集』一百六十巻。子の葉均は集賢校理。