出自と父謝濤
- 謝絳は字を希深といい、先祖は陽夏の人、祖父謝懿文は杭州鹽官県令。父謝濤は文行で知られ進士から梓州榷鹽院判官となり、李順の乱の際に守禦策を献じ功で観察推官・華陽県知事に進んだ。賦税の重課により失われた田を農民に返還する等の善政を行った。
- 秘書省著作佐郎・興国軍知事を経て、契丹侵攻の際に曹州知事として賦税の輸送を軽減する提言を行い、蜀への使者の際に推薦した三十余名の官吏について「罪があれば連座する」と宰相の疑いに応じた(これが奉使の連座の始まりとされる)。真宗の山陵の際に城門の毀撤を控えるよう諫言し、太子賓客に至った。
経歴と土徳論
- 謝絳は父の任により秘書省校書郎試、進士甲科で太常寺奉禮郎・汝陰県知事。四民失業論を論じ、天禧年間に宋朝の徳統(土徳か金徳か)を巡る議論で、董行父の金徳説に対し「唐を越えて隋を継ぐなら土徳、五代を越えて唐を継ぐなら金徳だが、太祖は実際に周室から受禅した」として自らの説を主張したが、両論ともに退けられた。
- 楊億の推薦で秘閣校理・太常礼院同判。仁宗即位後、太常博士として宣祖の配享問題、真宗の感生帝配享を提言したが翰林学士承旨李維に反対され通判常州に出された。
- 天聖年間の大水・旱・蝗害・滑州の河決に際し「洪範」「京房易伝」を引いた長大な上疏を送り、祭祀の怠慢や政令の時機に反する行いが水害を招くと説き、罪己の詔と改革を求めた。国史編修官・祠部員外郎・直集賢院。父謝濤の老齢を理由に河南府通判を請う。
- 唐の麗正書院や太宗の秘閣建立の故事を引き、火災後に荒廃した秘閣の再建を建議し、詔可を得た。地方にあってもしばしば時事を論じ、託言数術の徒による民間での威権の弊害を戒め、璽書偽造対策を求めた。
- 開封府判官として蝗害に際し『春秋』穀梁伝の哀公の田賦の故事を引き、有能な地方官を得るための科挙以外の登用制度(州守推薦・自辟制)を提言。京房の考功課吏の故事も引いた。
- 郭皇后廃立に際し『詩経』「白華」を引いて申后・褒姒の故事に諷し、その切実さから三司度支判官に左遷、のち兵部員外郎。宮中の費用が急増(前年比二十余万緍増)していることを指摘し、慣例に依らず近年の実勢に基づく節減を提言。禁裏の織物禁令が有名無実化していることも批判。
- 号令の頻繁な変更を戒め、内降(宮中からの人事介入)を廃し詔令を中書・枢密院経由に一本化するよう請い、「聖治箴」五篇を献じた。父の喪に服し、服除後に知制誥・吏部流内銓判・太常礼院を歴任。職田制度の不均衡を是正した。鄧州知事となり、美陽堰の水利改修(召信臣の六門堰の旧跡復旧)を計画したが完成前に卒去、享年四十六。
- 文学で知られ、修潔で人望が篤く、各地で学舎を興し、河南では国子学の教育に数百人の生徒を集めた。宗族への施しを好み、没した日には家に余財がなかった。著書『集』五十巻。子は謝景初・謝景溫・謝景平・謝景回。景回は早世。
謝景溫(字師直)――経歴
- 謝景溫は字を師直といい、進士に及第し汝州・莫州通判、江東転運判官。宣城の百丈圩開発を巡り議論者から責を問われ漣水軍通判に左遷。神宗初、諫院知事、真州提点江西刑獄、京西・淮南転運使を歴任。王安石と親交があり、妹が安石の弟安禮に嫁いだ縁で侍御史知雑事に抜擢された。
- 王安石が蘇軾を嫌った際、蘇軾が父の喪で蜀に帰る際に船で商売したという疑惑を景溫が追及、六路に捕吏を出させたが結局実証されなかった。蘇頌らが李定の不孝(母の喪に服さなかったこと)を論じた際、安石の意を汲んで当初は李定を弁護したが、衆議に押されて服喪すべきと言を変えた。薛向・王韶を巡る発言でも安石の意に反することがあったが、かつての協力を評価され直史館・侍読を兼ねるも辞退。
- 鄧州知事から陝西都転運使、司農の規約違反で鄧・襄・澶三州知事、直龍図閣・将作監判・右諫議大夫を経て潭州知事、章惇の五溪開拓を助けて功を挙げ礼部侍郎に進んだ。洪州・応天府・瀛州の知事、元祐初に宝文閣直学士・開封府知事となったが、御史中丞劉摯・右司諫王覿から不作為や妖婦との関わり(瀛州の李某を巫女として厚遇し官府に出入りさせた不祥事)を弾劾され蔡州知事に左遷。
- 権六曹尚書(刑部)に一時任じられたが劉安世の弾劾で鄆州知事、永興軍知事を歴任。章惇が宰相となった際、元祐大臣の政策変更や西夏の不遜な態度を批判し境界画定を主張、これが用いられ河陽知事に転じ、享年七十七で卒去。