経歴
- 馮元は字を道宗といい、高祖馮禧は唐末に広州で官を務め術数で劉氏(南漢)に三代仕えた。父馮邴は広南平定後に入朝、保章正となった。馮元は幼くして崔頥正・孫奭に五経大義を学び、樂安の孫質、呉の陸参、譙の夏侯圭と共に「四友」と号され夜を徹して講学した。
- 進士に及第し江陰尉。流内銓が明経を求めた際、五経に通じると自薦し、謝泌の疑問(「経一つでも白髪に至る、若くしてすべてに通じられるか」)に「達する者は一を以て貫く」と答え、疑義の弁析にも滞りがなかった。
- 国子監講書・大理評事・崇文院検討・国子監直講を歴任。王旦に見出され進士殿試で『易』を講じ「地天泰」の卦義(天地の気が交わることで君臣上下が相与すれば天地財成万化を輔け得る)を説き帝を悦ばせた。
- 太子中允・直龍図閣、内朝への参与制度の先駆けとなった。天禧初、査道・李虚己・李行簡と共に宣和門北閣で『易』を講じた。太常丞・礼部吏部南曹判、皇子(寿春郡王=仁宗)の資善堂での経筵に王旦の推薦で加わり、崔遵度の死後左正言・太子右諭徳を兼ねた。
- 仁宗即位後、戸部員外郎・直学士・侍講、孫奭と共に経術で仁宗の学問を進め、会霊観副使・通進銀臺司知院・登聞検院判・国子監同知を歴任。旧来公卿子弟が国子監の管理職を占めていた慣行を改め、孫奭・馮元の任命は士の間で歓迎された。
- 龍図閣学士・三朝正史編纂・翰林学士・尚書都省判・三班院、史館修撰・流内銓判・羣牧使を兼ね、給事中に四遷。明道元年(1032年)宸妃(李宸妃)の葬儀を監護、仁宗親政後に宸妃を荘懿皇后に追册し永定陵に改葬したが、発掘時に泉水が湧いたことを咎められ翰林学士から河陽知事に左遷された。
- 王曾の弁護で翰林侍講学士に復帰、禮部侍郎・審官院知院・礼院国子監判を歴任。『金華五箴』を上呈し、『景祐広楽記』編纂を主導。戸部侍郎に遷ったが足の病を得て卒去。李淑・宋祁が銘志を作った。尚書本部の官を追贈、諡「章靖」。
- 性格は簡厚で慶弔以外は二府(宰相府)を訪ねなかった。母の喪では礼制を守り世俗の斎薦を行わず、祭日には門生と孝経を誦じるのみだった。古今の台閣の制度に精通し、易学に特に精通した。七歳で『易』を読み始めた際、母が紺蓮華を呑む夢を見たという故事がある。無子で兄の子馮譓を後継とした。