宋史卷二百九十四 列傳第五十三 聶冠卿

経歴

  • 聶冠卿は字を長孺といい、歙州新安の人。五世祖聶師道は楊行密に仕えて「問政先生」と号し鴻臚卿に至った。冠卿は進士に及第し連州軍事推官、楊億に文才を認められ大臣に推挙され学士院で校勘。
  • 大理寺丞・集賢校理。蘄州通判の際、『十代興亡論』の誤りを校閲したことで職を落とされたが太常博士・集賢校理に復帰。旬奏の獄について、笞杖罪は覆審されるが徒流罪で未収監の者は上聞されないことを指摘し制度を改めさせた。
  • 開封府判官・三司塩鉄度支判官・修起居注を歴任、尚書工部郎中。馮元の大楽修訂に事跡調査で協力し、『景祐広楽記』編纂にも参与。刑部郎中・直集賢院、兵部郎中で知制誥、太常礼院判・刑獄糾察を兼ねた。
  • 契丹への使者となった際、契丹主から「あなたの家は代々道を奉じてきた、子孫に栄達する者があろう」と言われ、著作『蘄春集』の詞の清麗さを評され毬打ちと酒宴で厚遇された。通進銀臺司・審刑院同知、翰林学士。母の喪で服喪し起復後に昭文館判・侍読学士。
  • 『左氏春秋』の進読で常に「尊王黜覇」の義を説き諷諌とした。ある日笏を落とした際、帝はその哀毀の様子を憐れみ湯薬を賜った。母の埋葬のため揚州に赴いた際に卒去した。弟の聶世卿が宣州通判として弔問。延豊倉で発掘された古磚に隷書で刻まれた予言的な銘(「昭王大丞相聶」等)があり、記された没年月日と享年(五十五歳)が寸分違わなかったという逸話が残る。詩をよくし『蘄春集』十巻。

史論(学士大夫の操行について)

  • 学士大夫が凡人と異なるのは操行を修めるからだと説き、掌禹錫は迂陋で止足を知らず世の譏りを受け、蘇紳は急進で人を陥れることを好み、王洙は阿諛附会し晩節を汚して生涯の学問を忘れたと評す。一方、胥偃の恬正、栁植の廉介、聶冠卿の雅尚は侍従に恥じないものであったと結ぶ。