宋史卷二百九十三 列傳第五十二 張詠

出自と経歴

  • 張詠は字を復之といい、濮州鄄城の人。若くして気概があり、小節にこだわらず、貧賎の時も客遊して人に屈しなかった。
  • 太平興国五年(980年)郡挙進士の際、未だ及第していなかった宿儒張覃のために寇凖と共に郡将へ書簡を送って推薦を譲り、その年張詠自身は進士乙科に登第。大理評事として鄂州崇陽県知事となった。

蜀の治政

  • 著作佐郎・太子中允・秘書丞を経て麟州・相州の通判を歴任、太宗に強幹を認められ虞部郎中に抜擢、金紫を賜り枢密直学士・銀臺通進封駁司同知・三班院を兼ねた。
  • 并代部署の張永徳配下の小校が処刑された事件で、詠は詔書を封還し「もし一部校のことで主帥を辱めれば、下に上を軽んじる心が生じる」と諫め、後に果たして営兵の脅訴事件が起きたため太宗はその見識を賞した。
  • 益州知事として赴任した際、李順の乱の平定に手間取っていた王継恩・上官正らを激励し、酒宴で軍校に「もし戦を長引かせれば、ここが汝らの死に場所となろう」と檄を飛ばし、上官正を深く進軍させて大勝を導いた。継恩の帳下卒が夜逃げして密告した件では、継恩との不和を避けるため、密かに古井に投じて処理した。
  • 賊乱の際に脅されて従った民衆に対し、朝廷の恩信を告げて帰農させ、「かつて李順は民を脅して賊とした。今日私は賊を民に変える、それでよいではないか」と語った。妖言(白頭翁が人の子女を食うという流言)が広まった際は造言者を戮し、迷信ではなく識断で妖訛を鎮めるべきと述べた。
  • 蜀の学問振興のため張及・李畋・張逵らを推挙して科挙に応じさせ、三人とも及第した。訴訟には情偽を見抜いて判決を下し、その判文は編集され板刻されて広まった。「君子に問えば君子を得、小人に問えば小人を得る」という言葉を残した。恩威並用の統治で蜀民に畏愛された。
  • 銅鉄銭の兌換比率(銅銭一に対し鉄銭十)が地域により実勢と乖離(利州で五、綿州で六、益州で八)していることを上言し、旬ごとの相場に応じて銅銭で納めるよう改めさせた。

晩年

  • 真宗即位後、左諫議大夫、給事中・戸部使・御史中丞を歴任。承天節の斎会で酔態のあった丞相らを弾劾。杭州知事として飢饉の際、私塩を売る数百人の犯者を全て寛恕して放免し、「銭塘十万家の八九割が飢えている。塩で生きなければ蜂起して盗となる、それこそ患いだ」と述べた。
  • 民家の家財相続争いで、亡くなった義父の遺言(子に三分、婿に七分を与える)を覆し、「これは幼子を思っての言葉、七分をそのまま子に与えれば子は死ぬ」として七分を子に、三分を婿に与えさせ、その明断は人々を服させた。
  • 永興軍府知事、益州に再任(刑部侍郎・枢密直学士を加える)、真宗から「卿が蜀にいれば西顧の憂いなし」と評された。三班院を掌り、腦の腫瘍に悩まされ潁州を求めたが、公直さから再び益部に留められた。
  • 大中祥符初、左丞を加え、昇州知事、再任・工部尚書。昇宣等十州安撫使として江左の旱害に対処。真宗は腫瘍を憂い薛映を代わりに派遣したが、詠は近年の国庫浪費と無用な土木事業を批判し、丁謂・王欽若が真宗の奢侈心を煽っていると弾劾する上疏を三度奉った。
  • 陳州知事となり、若き日の学友傅霖(隠者として三十年行方知れずだった)が突如訪ねてきて再会。傅霖は「あなたはまもなく世を去る」と予言し、翌日別れて一月後に張詠は没した。享年七十。左僕射を追贈、諡は忠定。
  • 性格は剛方で自任し、政治は厳猛を旨とした。ある小吏が忤逆した際は首枷にかけ、悖った態度をとった吏を斬った逸話がある。若くして剣術を学び、慷慨として大言を好み、奇節を好んだ。友人の女子を奪おうとした従者を密かに討った逸話もある。「事君の道はこうだ――廉にして貧を語らず、勤にして苦を語らず、忠にして己の効を語らず、公にして己の能を語らず」という言葉を残した。号は乖崖。著書に『集』十巻。弟の張詵は虞部員外郎。

史論

  • 「邦に道あれば危言危行す」との『論語』の言を引き、田錫・王禹偁・張詠の三人はともに骨鯁蹇諤の節を備え名臣とされたのは時運によるとする。王禹偁の制戎の策は後にその言の通りとなり、その醇文奥学は世に仰がれ、没後に特に褒美の詔が下された点は、容容黙黙として禄位を守るだけの者とは異なると評す。張詠が至る所で政績を挙げ、真宗が「詠が蜀にあれば西顧の憂いなし」と評したことに触れ、三人ともその剛直さゆえに世に容れられにくく、用いられ尽くさなかったと結ぶ。