宋史卷二百八十八 列傳第四十七 任布

出自と初任

  • 任布、字は応之、河南の人。後唐宰相の任圜の四世孫。学に励むも家は貧しく、人から書を借りて読んだ。進士及第し安粛軍判官に補せられ、しばしば虜(契丹)の情勢を尋ね、辺境の防備を整えるよう上疏し、河北の利害を上奏した。後に契丹が澶淵に至った際、真宗はその名を記憶しており、特に大理寺丞・安陽県知事に改め、嘉州通判、開封府司録事、大名府通判を歴任。提点刑獄が新設された際、選ばれて荊湖南路を管轄した。
  • 三司塩鉄判官を権知、度支勾院を判じた際、京城東南に泉が湧き出て祥源観が築かれ、男女が裸足で駆けつけ拝んだが、布は「明朝が神怪をもって愚俗を惑わすべきではない」と論じ、宰相の意に逆らった。また徐奭・麻温と共に開封府の進士試験を担当した際、奭が密かに封筒を開いて試験内容を見たため、布は鄧州の税監に降格され、宿州知事に転じた。
  • 越州の知事が欠員になった際、寇準は「越州には職分田があり毎年の収入が厚い、今争う者が多いが清廉な士でなければ与えられない」と言い、布を越州に転じさせた。ある祖父が孫を訴えた事件で、孫が酔って祖父を罵ったが、後に日々庭で泣いて悔い「私は老いて子がなく、この孫を頼りに生きている」と言ったため、布はこれを聞いて孫の死罪を許し、自らを弾劾する上書をしたが朝廷は咎めなかった。寇準が左遷されると布も建州に転じ、累遷して尚書職方員外郎となった。丁謂が失脚した後、白波発運使に用いられ、翌年余り三司開拆司を判じ、梓州路転運使に出た。富順監の塩井は年々産出が減っているのに課税額は変わらず、業者は破産したり子孫を売る者もいたが、布は上奏してこれを免除した。

中年から晩年

  • 祠部郎中に遷り戸部判官を権知、江淮制置発運使に抜擢された。前任の使者らは多く山海の珍異な物を集めて権要に贈っていたが、布は一切これを罷めた。召されて三司度支副使となり、契丹への使者から戻ると直史館を加えられ荊南知事、塩鉄副使、契丹使の館伴を命じられ、兵部・刑部郎中を歴任、右諫議大夫・真定府知事となった。河北の兵を減らそうとする議論があったが、布は「契丹・西夏はいま中国を窺っている、備えを弛めるべきではない」と述べ、滹沱河に沿う甬道を築いて泥濘を渡りやすくした。滑州に転じ天雄軍に改まり給事中に遷った。集賢院学士・許州知事となり、まもなく龍図閣直学士として澶州に転じた。
  • 黄徳和が劉平を降賊と誣告し平の家族を捕らえようとした際、布は平が降賊者ではないと強く主張した。再び真定に転じ、さらに河南府に転じたが赴任前に召されて枢密副使となった。布は純朴で自らを守り、政権を握っても特に建言することはなかった。子の任遜がかつて上書して大臣及び布を「不才」と非難したことがあり、御史の魚周詢はこれを利用して「布が不才であることはその子が知っている」と上奏した。布は尚書工部侍郎に降格され河陽知事となったが、議者は周詢が任遜の言葉を引いてその父を陥れたのは体をわきまえないと批判した。
  • 蔡州に改まり太子少保を授かって致仕、少傅に進んだ。皇祐年間、明堂陪祠を詔されたが病と称して赴かず、一子に進士出身を賜った。少師に遷り、布は洛陽に帰り「五知堂」を作り、知恩・知道・知命・知足・知幸を意味すると述べた。卒し太子太傅を贈られ、諡は恭恵。子の任逹も性格が恬淡で仏教を尊び、官は司封郎中に至った。