宋史卷二百七十六 列傳第三十五 張觀

張観

  • 字は仲賓。常州毗陵の人。江南にあって進士に登第し、宋に帰して彭原主簿となる。太平興国初、興元府掾に移り再び進士に挙げたが及第せず鶏沢主簿に調される。再び試験を求め特に忠武掌書記を授かり就いて観察判官に改まる。上に刺史の復置を請うが遣わされず、武徳卒が外州に至って情報を探ることについて上言し帝意に叶い監察御史を拝し桂陽監使を充てる。その業を献じ進士及第を賜う。
  • 折しも三司が劒外の賦税が軽いと言い、詔で観に伝を乗って諸州を按行させこれを稍増させようとした。観は上疏し「遠民をみだりに動揺させるべきでない、撫でてなお失所を慮るべきなのに、況や賦を増やして擾すのはなおさらだ。積粟が流衍して京師に輸するとしても、いよいよ漕輓の力を煩わすのは固より不可である、あるいは兵を分けて食を就くのも安存の策ではなく、ただ民に怨みを歛めるだけで国家の利は見出せない」と述べた。太宗はこれを深く然りとし留めて遣わさなかった。
  • その後、また上疏し「臣は光寵を憑り風憲の位に備わり、百官の起居のたびに庭に分立し儀に合わぬ者を糺しております。陛下の天慈が優容で、しばしば近臣と政事を論じ徳音が往復するのは煩労に過ぎるところがあります。有司の職官が意を承け進んで簿書叢脞をことごとく上聞するのは、至尊を褻瀆するだけでなく国体を軽んじ紊すことにもなります。況や帝王の道は、言えば左史がこれを書き動けば右史がこれを書き緗素に列して軌範として垂れるものであり、慎まざるべからずです。今の急務は、遠人がまだ服せず辺鄙が寧んじず陰陽が未だ序さず倉廩がなお虚しく淳朴がなお還らず奢風がなお熾んで県道がなお治まらず逋逃がなお多く刑法がなお措かれず禁令がなお密であり墜典がなお復さず封祀がなお闕けている、これらすべて朝廷の急務です。願わくは陛下、聴断の暇・宴息の余に大臣を礼遇し、心を尽くし膝を進めて論思を極めれば、治体化源にどうして至らぬところがありましょうか」と述べ、さらに「臣はかつて唐史を読み、貞観初に崇文館を置き学士耆儒に更直させ聴朝の際は内殿に入って文義を講論し時政を商榷し、日が暮れても倦むことを忘れ夜半に及んでようやく罷むこともあったと知りました、これは信史に書かれ不朽として垂れられています。況や陛下の左右前後はみな端士偉人です、伏して願わくは循常の務めを釈き浩然の気を養い、深く近臣に詔して元風を闡揚し、上は祖宗のために無疆の休を播き下は子孫のために不抜の業を建てられますよう。金穀を較量し毫釐を剖析することに有限の光陰を費やし無涯の細務に役されることとは同日に論じられません」と述べた。
  • 上はこれを覧て称賛し召して緋魚を賜い度支判官とした。歳余りで左司に遷り鹽鐵判官に改まる。かつて奏事に因って上に「陛下は淳化を敦くすることに務め殿宇の采飾もすべて撤去され朴素を尚ばれること天下の幸いです、しかし服御器用についても純倹に従うことを臣は願います」と述べると、上は「朕の庶事は簡約であり、着る物は多く絁絹を用いすべて澣濯を経ている、そなたの言葉は甚だよい」と答えた。
  • 観はしばしば省署や長春殿の次で事を諮る際、その使李惟清と弁説が牴牾し礼容を失い、惟清は堪えかねてその任を解くよう奏した。観は抗章して論列したが、上もその失がないことを察したため、まもなく旧職に復された。また仏寺の修治を罷めることを諌めたが報われず、まもなく諸路茶塩制置副使として出た。茶塩の制を改めることが理にかなわないと上疏したことが帝意に叶わず知黄州に改まり、揚州に遷りいずれも善政があった。
  • 折しも三司が旧貫を改め州県の籍を均して職を分けようとした際、召されて三司河東道判官となる。詔で計司の官属は職を越えて他事を言うことを禁じられていたが、観は自ら諫官を任じていたため上書して拾遺補闕の職として言事するのは当然だと指陳し詔を奉じなかった。上は怒って宰相に「朕は三司の僚属にそれぞれの職を率いさせようとしたのであり、諫官に時務を言うなと命じたのではない、観はみだりに援引して朕を諷刺した、姑くこれを容忍して深く責めようとは思わないが」と述べ、知道州として出し広南西路転運使に移した。
  • 折しも交州の黎桓が乱兵に殺され丁濬が復位したという事を奏し、事実でないことに劾せられ、獄が具わらぬうちに桂州で没した、享年53。観は漢史を広覧し論事を好み辞理は切直で古人の風があったという。

史論

  • 論じて言う。劉保勲はその子と共に殉じ、宋璫は自らの身を忘れて民を恤み、臧丙は友誼を信じてその冤枉を明らかにした、その履歴はみな見るべきものがあった。滕中正はほぼ風紀を振るったが峻深で寛恕に乏しく、袁廓は剛狷で誇誕により寵任を求め、承恭は平恕で止まることを知りながら仏に佞ることを好んだ、これらはみな未だ善を尽くしたとは言えない。樊知古は初め征南の謀を献じて登用への道を開いたが、旧都で轡を執るに及んでなお宿怨を尋ねたのは、昔の人が言う「私怨をもって郷党の好みを廃さない」というのとは異なる。郭載は矯誣を肆にしたとして憤りを抱いて死に、休復は慎終の孝を欠きながら人を禍に致すことを楽しんだ、これらは何を論ずるに足りようか。張観の献納忠讜、体要を識達したことは称賛に値する。