宋史卷二百七十六 列傳第三十五 宋璫

宋璫

  • 字は宝臣。華州渭南の人。父の鸞は監察御史。璫は乾徳中、進士及第し抜萃登科、青城主簿に解褐。書写を好み秩が満ちると数千巻を積んで帰った。呉延祚が永興を鎮した折、辟されて掌書奏を務めたが延祚が没すると再び下邽主簿に調され著作佐郎に抜擢され知綿州。
  • 太宗即位後、右賛善大夫に改まり峡路転運副使となる。代わって還ると召対を受け緋魚を賜い、再び出て知秦州。善政があり就いて監察御史を拝し陝西転運使を充てる。韋亶が代わって知秦州となった際、璫が州を去って未だ百日も経たぬうちに亶が事に連座して獄に繋がれた。上は璫の以前の治績を認め銭50万を賜い、再び知秦州を命じた。諸戎を安集し部内は清粛であった。
  • 雍熙初、比部員外郎に転じ、在任すること6年で召還され、面謁の際に金紫を賜り度支判官を授かる。まもなく屯田郎中に遷り知益州。折しも歳饑で盗が多かったが璫が到着してから方略で捕えると盗はみな服従し息を潜めた。詔でこれを嘉奨。
  • 端拱初、就いて右諫議大夫を拝す。当時、両川転運使副はみな事に連座して免ぜられていたので、璫は西川転運使とされ左諫議大夫を加える。知陝州に改まる。淳化中、三呉が歳饑で疾病により民が多く死んだ折、長吏を選んで養治させ、璫は知蘇州を命じられた。璫は体が豊碩で常々足を病んでいたが、州は地が卑湿でその疾はますます悪化した。ある人が病を理由に北へ帰るよう勧めたが、璫は「天子は民の病を思われて私に綏撫を命じられた、私が己の病により辞するのは臣子の義ではない」と述べた。まもなく太白が南斗を犯した際、「斗は呉の分野、民はまさに饑え、天象がこうであれば長吏に咎めがないだろうか」と語り、淳化4年(993年)没、享年61。上はこれを聞いて嗟悼し、子の明遠を蒲城主簿に録しその喪を護送させ帰葬させた。
  • 璫は性質清簡で歴官30年、家事を問うたことがなく、ただ書を集めて子孫に遺し「本を忘れさせないためだ」と述べた。明遠は淳化3年(992年)の進士で後に都官員外郎に至った。次子の柔遠もまた進士に挙げられ、垂遠は閤門祗候に至った。