王侁
- 字は祕権。開封浚儀の人。父の朴は後周樞密使。侁は父の任により太僕寺丞となる。朴が没すると世宗はその邸を訪れ諸孤を召見し、侁を東頭供奉官とした。開宝中、江南征討に侁は師を率いて桐城を戍ることを命じられる。王師が江を渡ると樊若水と共に知池州となり、兵を率いて江南軍4千余を宣州で破り、金陵平定の功で閤門祗候を加える。
- 太平興国初、梅山洞蛮討伐に参加。契丹の使者が来貢した際、詔で侁が境上まで送った。還って霊州通遠軍への使いから戻ると、主帥が留めた牙兵が辺人と結び桀黠で制しがたいこと、歳が久しいため悉く代えるべきことを言上した。太宗は侁を遣わして内地の卒で交代させたが、戍者は代わることを聞いても多くが還ることを望まなかった。侁はその中で命に逆らう者を斬って衆に示し、衆はみな畏れ従い、ついに率いて還ることができた。1年の間に数度西辺を往来し便宜をしばしば上奏し、上はよくこれを聴いた。
- 太平興国4年(979年)、太原征伐に従い侁は陽曲・塌地・石嶺関の諸屯を護り、廐馬・介冑を賜り、5月に城下に至り東上閤門副使に転じる。晋陽平定後、留まって嵐・憲の巡検となる。太平興国9年、代わって還り西上閤門使に遷り銭百万を賜う。河西三族の首領折遇乜が叛いて李継遷に入った際、侁が師を率いて討ち擒え、功により蔚州刺史を領す。
- 王師の北征にあたり并州駐泊都監、また雲・応等州兵馬都監となる。侁は性質剛愎で言葉により楊業を激励し、業は力戦の末に陣に陥った。侁はこの罪に連座して除名され金州に配隷された。この事は楊業伝に載る。折しも赦により均州団練副使に移る。淳化5年(994年)、召還される道中で病を得て京師に至り没した。弟の僎は供奉官・閤門祗候に至ったが交阯征討の軍が敗れた事に連座し誅された。弟の備・偃はいずれも進士に及第、偃は太常博士に至る。朴の弟の格は宋初、右補闕・直史館から都官員外郎・広南転運使に至る。格の子の侗は太平興国の進士で都官員外郎に至る。