宋史卷二百七十四 列傳第三十三 史珪

河南洛陽の人(?–雍熙中、享年61)。太祖の側近として密偵的な役割を果たし信任されたが、讒言を弄したことが露見し信頼を失った。地方官としては善政を示し民に慕われた。

年表(6件)

史珪

  • 河南洛陽の人。父の暉は後晋の厳衞指揮使。珪は若くして武勇により軍籍に隷す。後周顕徳中、小校に遷る。太祖が禁衞を領していた折、珪が左右に給事し、受禅後は御馬直隊長に用いられ、4遷して馬歩軍副都軍頭兼控鶴弓弩大剣都指揮使に至る。開宝6年(973年)、都軍頭を加え毅州刺史を領す。
  • 太祖は即位当初から外事をあまねく知ろうとし、珪に博く諮訪させたところ、珪は数事を廉知して上に告げ、検証するといずれも真実であったため信任された。しかし後に威福を肆にするようになり、民が官物を買う際に価が不当だと珪が欺罔の罪で告げるようになったため、店舗はみな側目してこれを恐れた。太祖はこれを聞き、詔で「古人は獄・市を寄託の場とみなした、小民が利に走るのは已むを得ないところがあり尽く法で縛るべきではない。先の禁令の周知が不十分なまま罪に陥れるのは理に反する、今後、官物の売買で価を偽り申告し官銭を欺いた者は事実であれば法に照らすが、詔前の犯は一切問わない」と定めた。以後、珪は再び言い立てできなくなった。
  • 当時、徳州刺史郭貴の族人・親吏が徳州で不正な利を得ており、知徳州の国子監丞梁夢昇が法でこれを取り締まったところ、貴は珪と親しく、人を遣わしてその事を告げ夢昇を除こうと図った。珪はこれを紙に記し機会を伺っていた。ある日、上が「近来、中外に任じた者はみな適材である」と語ると、珪はにわかに「今の文臣もみな善というわけではない」と述べ、懐中の記録を取り出して「知徳州梁夢昇は刺史郭貴を欺蔑し、ほとんど死に至らしめました」と述べた。上は「これは必ず刺史が不法を働いたためだろう、夢昇こそ真の清強の吏である」と言い、その紙を中書に付して「夢昇を賛善大夫とせよ」と命じた。また「左賛善に」と改め、珪の讒言は行われずに終わったため常に不満であった。
  • 開宝9年(976年)、禁中の機密漏洩に連座して光州刺史として出された。折しも歳饑饉で淮蔡の民が州境に流入した際、珪は上奏を待たずに倉を開いて価を減じて糶り、多くの人命を救った。吏民が闕に詣でて碑を立て徳を頌えることを請う者数百人に及んだ。太平興国初、揚楚等九州都巡検使となる。太平興国4年(979年)、太原征伐にあたり珪は彰信軍節度使劉遇と共に城の北面を攻める。
  • 幽州征討に従うが、部下の逗撓失律に連座し定武行軍司馬に責め降される。数月後、召されて右衛将軍・領平州刺史となり、恵民河の浚渫を督し、尉氏から京師まで90里を数旬で完成させ、民はみなこれを便とした。折しも江淮の民、麹謀首ら数十百人が盗として聚まった際、珪に龍猛騎兵500を率いさせて捕らえさせ悉く獲た。太平興国6年(981年)、隰州刺史に遷り保州・静戎軍を知り、辺境の便宜15事を上言しいずれも従われた。
  • 雍熙中、曹彬に従い幽州を征し押陣部署となり、部下が涿州を下した。師還って没す、享年61。珪は智数に富み、甘言と小恵で人々の誉れを得ることを好んだため、赴任地ではみなその離任を惜しんだという。