宋史卷二百七十四 列傳第三十三 王贊

王贊

  • 澶州観城の人。若くして小吏となり、累進して本州の馬歩軍都虞候に至った。周世宗が澶淵に鎮していた頃、旬ごとに囚人を裁く場で、王贊が律令を引いて筋道立てて弁じたため、世宗はかつて学問を修めたことを知り、即位後にただちに右職に補した。東頭供奉官から累遷して右驍衞将軍・三司副使となる。当時三司使であった張美に、世宗が京城の衞兵の年間食糧について尋ねたが張美は答えられず、王贊が代わって詳しく上奏した。張美はこれを恨んだ。
  • 関南征伐にあたり、王贊は世宗に進言して客省使・河北諸州計度使に任じられた。五代以来、藩鎮に対して有司は法を厳しく適用できずにいたが、王贊は至る所で不正を摘発し、恐れることがなかった。綱紀を振るい称職と評されたが、辺境の将たちはこれを深く恨んだ。師が還ると再び三司副使となる。
  • 建隆初、李重進の乱を平定した後、太祖は王贊の才幹を知り、揚州の修復を委ねて知揚州とした。赴任の途上、船が閶橋で転覆して溺死し、随行の親族3人も同じく没した。太祖は嘆いて左右に「わが将来の枢密使を溺れさせてしまった、重用しようとしていたのに」と語り、その家に絹300匹・米麦各200斛を賻した。