出自と経歴
- 曹光實、雅州百丈の人。父の疇は蜀の静南軍使として卭崍を控扼し蛮夷を防いだ。光実は少くして武勇があり胆気があり、財を軽んじ施しを好み細行に拘らなかった。疇の卒後、光実は職を嗣ぎ永平軍節度管内捕盗遊奕使に遷る。乾徳中、太祖が王全斌らに蜀平定を命じたが、まもなく盗賊が蜂起、夷人の張忠楽が群れをなして攻劫し光実がその徒党を殺したことを恨み、衆数千を率い夜中にその居を包囲し鼓譟並進、光実は母を背負い戈を揮って囲みを突き破って出たため賊衆は辟易して近づけなかった。賊は光実の一族三百余口を殺し墓を発いてその棺槨を壊した。光実は全斌に詣で事情を訴え冤憤を雪ぐことを誓った。
- 当時蜀中の諸郡は未だ下っておらず、光実は雅州の地形要害の図を作り兵を用いて攻取する策を陳べ、官軍が先にこれを下すよう請い、全斌はその志を壮とし兵を率いて先導させると、果たしてその城を克ち忠楽を捕らえて甘心を得た。全斌は光実を義軍都指揮使に署し、なお沈黎に拠っていた残賊を光実は所部をもってことごとく平定、光実に黎・雅二州知事および都巡検使を兼ねさせ、蛮族を安集勞来しこれを懐柔した。六(968)年秋、全斌が入貢の使いを遣わした際、境内が安定したので義軍を罷めて農に帰すことを乞い、太祖は喜び左右に「これは蜀中の傑俊である」と語り殿に召し労問した。長らくして黎州刺史とし、開宝三(970)年、唐州刺史に改める。
- 交広平定後も群盗が未だ止まなかったため光実を嶺南諸州都巡検使とし、着任後は群盗を海隅に捕逐し安寧をもたらした。太平興国二(977)年、本州団練使に遷り、河東征討に際し光実に威勝軍を知らせ軍食の調達を命じたが、光実は自ら一旅を率い先登することを願い出た。帝は「資糧の事も重い。それも力を発揮する場だ」と述べた。河東平定後、汾・遼・石・沁等州都巡検使とし、五(980)年、汝州団練使に改める。大軍の北征に潘美とともに雁門から出、光実は先鋒として敵を迎え撃ち破り数千級を斬首、優詔で嘉奨された。李継捧の入朝に際し光実は銀・夏・綏・麟・府・豊・宥州都巡検使とされ、継捧の弟の継遷が番落に逃げ込み辺患となった際、光実は間隙に乗じて地斤沢まで襲撃し俘斬甚だ多く、その族帳を破って継遷の母・妻および牛羊万計を獲たが継遷は辛うじて免れた。
- 継遷は人を遣わし光実に「私はしばしば敗走し勢いが窮まり自存できません。あなたは私の降伏を許してくれますか」と偽り、甥舅の礼を陳べ某日に葭蘆川に降ることを期した。光実はこれを信じ、その功を専らにしようと人と謀らず期日を迎えたが、継遷は先に伏兵を設け十数人を城近くに近づけ光実を迎えさせた。光実は数百騎を率いて赴いたが、継遷が前導し北行し、目的地に近づいたところで手を挙げ鞭を麾ると伏兵が応じ、光実はついに殺害された。享年五十五。帝はこれを聞き驚悼し賵賻を加等し、子の大理評事克讓を右賛善大夫に、克恭を殿直とした。淳化二(991)年、また克已を録して奉職とし、後に殿内承制に至り、克廣は閤門祗候に至った。従子は克明という。
克明
- 克明、字は堯卿、生まれた時、敵が百丈県を攻め父の光遠が殺害され、姆(乳母)が克明を抱いて葦蒲の中に匿れさせ難を免れた。成長すると兵法を喜び騎射をよくし、従父の光実に才を認められ衙内都虞候に補せられた。光実が葭蘆川で戦没した際、克明は輜重を護って後方にあったが光実の死を聞き軍が乱れることを懼れ発喪を秘し、密かに人を西に遣わし光実の令として軍を銀州に還らせるよう偽り伝えさせ、自ら僕の張貴とともに敵中に入り光実の遺体を得て京師に葬った。これにより名が知られるようになった。
- 当初、蜀人で京師にいた者は郷里への帰還を禁じられていたが、克明は母の老いにより間道から帰郷。李順が反した際、克明が将家の子でしかも名があると知り官職で脅そうとしたが、克明は母を伴って山谷に逃れ、夜に神祠に泊まった際、夢に人が叱って起こされ、目覚めてすぐ立ち去ると賊が果たして到来した。賊が雅州を陥すと克明は衆数万人を募り王師を迎え、名山・火井・夾門など九県を回復し、兵を嘉・眉・卭の三州に分け七砦を立てて賊を邀撃、雅州を再び収め六十余人を斬り、賊将の何承禄らを雲南に逃走させた。蜀平定後、西頭供奉官・黎州兵馬監押に抜擢され、残賊が未だ止まぬため卭州駐泊巡検を権した。翌年、峡路の潰卒鄧紹らが再び雅州を攻めるとまたこれを平定、卭州に還った際、賊の王珂と延貢鎮で戦い矛で左股を刺し、また山下に伏を設け数十騎で賊と接戦、克明は偽って敗走したが所部が期に遅れ伏が発せず、克明は単身走り賊に急迫され大石に依って弓を三発し三人を斃してこれにより免れた。
- 入朝して内殿崇班に改め温・台等七州都巡検使とされ、景徳中、蛮寇が邕州を侵した際、供備庫副使に改め邕州知事とする。左右江の蛮洞三十六に対し克明は酋長を召し恩信を諭し、この歳の承天節に相率いて来集した際、慰撫し衣服を与えると感泣して去ったが、独り如洪峒だけは険に恃み来なかったため、両江防遏使の黄衆盈に兵を率いて攻めさせ首領の陸木前を斬り市に梟した。宜州の澄海軍校陳進が反した際、鬱江が暴漲し州城が崩れたため、克明は丁夫に木を伐らせ連舫を作り水上に維(つな)ぎ郛郭のように見せ、多くの旗幟を張り巨栰に兵を陳べ守禦の備えとし、渓洞兵三千を募り黄衆盈も兵千五百を率い象州へ趣こうとしたところ、廵撫使の曹利用が克明と会兵の約をし貴州に次った際に賊と遇い大破、四百余級を斬った。賊平定後、利用がその功を専らにしたが、代還した克明は真宗に南方の事を問われ旨に称い一子に官が賜られ、供備庫使・江淮両浙都太提挙捉賊に遷った。
- 克明は人に賊を捕らえさせるため私銭を出して資したため人々は力を尽くし、賊中の趫勇(すばしこく勇猛)な者を釈放して戻らせその党を捕らえさせ、前後千余人を獲た。江寧府知事の張詠がその事を聞き銭四十万を賜り平州刺史を領し辰州を知る。撫水蛮が叛くと宜・融・桂・昭・柳・象・邕・欽・亷・白の十州都巡検使兼安撫使に徙る。着任すると蛮酋が「谿峒薬」と称する一器を献じ「薬箭が人に中ってもこれで解ける」と言ったが、克明は「どうやって験すのか」と問い「鶏や犬で試してみればよい」と言われると、克明は「人で試すべきだ」と言い薬箭を取り酋の股を刺して薬を飲ませると、酋はすぐに死に群蛮は恥じて懼れ去った。
- この年冬、安撫都監の王文慶・馬玉が天河砦の東から出、克明は中人の楊守珍とともに環州樟嶺の西の磴道を出た。険絶な道で林木が深く阻み蛮が多く伏弩を設けて待っており、玉は向かうところ力戦したがしばしば蛮軍に敗れた。この時、朝廷の意は招附にあり、たびたび克明を諭す詔があり、克明も深入を憚りしばしば文を移して玉を止めた。玉は如門団まで至ったが蛮に扼され進めなかった。克明は遷延し月余の後に撫水州に至り知州の蒙承貴らと盟約して還った。まもなく桂州を知り溪峒公事を管勾兼領し初めて溪峒司を置き、また広南両路の土軍を閲し忠敢軍と奏した。州人は茅葺の家が多く火事が多かったため、克明は北軍を選び瓦を焼く技術を教え、また江水を城内に引いて火災を防いだ。代還後、滁州知事、鼎州知事に徙り、交阯の李公蘊が邕州を寇した際、文思使として再び邕州を知り、人を交阯に遣わし利害を諭すと公蘊は謝罪の表を拝した。西上閤門使に遷り登・舒・邵の三州知事を歴任し再び鼎州に徙り卒した。