出自と経歴
- 李韜、河朔の人。勇力と胆気があり矟を用いるを善くし禁軍隊長となる。後周太祖の三叛討伐に韜は白文珂に従い河中を攻め兵は城に迫った。文珂が夜に太祖に犒軍を議しに詣でた際、韜は城下に留まっていたが、営柵が未だ備わらない中、李守貞が虚に乗じ襲来した。営中に火が発すると賊が驟に至ったことを知り恐慌が広がった。客省使の閻晋卿が左右数十人を率い月城側で韜に遇い「事は急だ。城中の人はみな黄紙の甲を被り火光に照らされて色がみな白い。これは殊に容易だが、軍士に闘志がないのはどうしようか」と言うと、韜は憤怒して「主君の禄を食みながら国のために死を致さないなどありえようか」と言い矟を援いて進み、軍中の死士十余輩が韜に従って賊の鋒に犯した。蒲の猛将が馬を躍らせ戈を持って韜を狙ったが、韜はこれを刺し胸を貫いて墜落させ、さらに数十人を連殺した。蒲軍は遂に潰え、これにより大破された。守貞はこれ以来壁を閉じて出なくなり、まもなく驍将の王三鉄が降り城が平定された。韜はこれにより知名し軍校を累遷、趙州刺史に出て慈州に移り、乾徳六(968)年、卒した。