宋史卷二百七十一 列傳第三十 解暉

出自と経歴

  • 解暉、洺州臨洺の人。父の珪は募に応じ州兵となり、後唐天成中、劒門への西征に戦没した。暉は少くして勇力があり、父の戎事による死により兵籍に隷し鴈門を戍り契丹と接戦し首七級を斬り酋長一人を獲た功により奉国軍隊長に遷る。後晋天福中、安重栄が鎮州で叛乱を起こし関に向かい宋城に至ると、晋師が逆戦しこれを大破した。暉は軍中の壮士百余人を募り夜に賊の壁を突き殺獲甚だ多く、暉はしばしば流矢に中りながら督戦をやめず顔色も動じず、功により本軍列校に遷る。後周広順初年、劉崇と契丹が晋州を侵した際、暉は都部署枢密使の王俊らに従い援け、敢死の士三十余人を率い夜に契丹の陣に入り撃って殺獲甚だ多く、本軍第五指揮使に遷る。世宗の淮南征討に従い所部で黄州を下し刺史の高弼を捕らえ虎捷第一軍都虞候に遷る。
  • 宋初、歩軍都軍頭となり澤州征討に従い力戦して目に流矢を受け、師還ると勲を策して内外馬歩軍副都軍頭となる。建隆四(963)年、湖広道行営前軍戦擢都指揮使を充て、潭州平定後は璽書で奨諭された。偽の統軍黄従志が岳州に拠った際、暉は舟師を率いこれを討ち平定、従志および将校十四人を生け捕り数千を俘斬し溺死者も多かった。控鶴右第二軍都指揮使に改め高州刺史を領す。乾徳六(968)年、所部軍を上党に屯するよう詔され李継勲に従い太原を略し、開宝九(976、実際には八年か)年、太原軍を境上で破り千余級を斬首し馬三十匹を獲て均州刺史に改める。太平興国二(977)年、潞州北の乱柳石囲に築城し威勝軍と名づける詔があり、暉は軍使としてこの征討に従い、尚食使の石彦贇とともに所部を率い隆州を先に下し、并州の三百余人を殺し招討使の李詢ら六人を禽にして行在に献じ賜予が加えられた。彦贇と督戦を続け城西行営に隷し太原を分攻、劉継元が降ると太宗は太原宮女三人を暉に賜った。
  • まもなく本州団練使に遷り覇州を知り、雍熙初年、雲・応・寰・朔・忻・代等州都巡検使を充て、三(986)年、代わって本郡に戻り、淳化二(991)年、病により告老を上章し右千牛衛上将軍致仕に改められたが、詔が至る前に八十歳で卒した。暉は鷙猛で木強、詔を受け征伐するたび常に身をもって先んじ、人が憚るところも暉は容易に見なした。これにより頻りに戦功を立て金創が体中にあり時に驍将と称された。子の守顒は内殿崇班閤門祗候に至った。