出自と経歴
- 陸萬友、蔚州霊丘の人。少くして太原に隷し裨校となる。後漢祖の起義により護聖指揮使に抜擢、隠帝即位により天雄軍馬軍都指揮使に出た。後周太祖の挙兵に萬友は謀に預かり、践阼に及び散員都指揮使に抜擢され獎州刺史を領す。世宗嗣位により龍捷左第三軍都指揮使に遷り控鶴右廂都校に転じ虔州団練使を領し、虎捷右廂に改め閬州防禦使を領す。恭帝嗣位により安州防禦使に出た。宋初、沂・蘄の二州防禦使を歴任、乾徳四(966)年、汝州に改める。開宝中、南唐征討で采石磯に舟を造り師を渡す際、萬友がこれを守り、江南平定後は和州防禦使となった。太宗嗣位により晋・絳等州都巡検使とされ、帝の太原征討で汾・石の二州を克った後、石州都巡検使とし、まもなく石州を兼知す。鳳翔・秦隴の巡警を経て召還され瀛州を知ることを詔され、郡に在ること二年、政務は苟簡(ずさん)であった。雍熙二(985)年、右監門衛大将軍に改め河陰兵馬都監を充て、年を越えて七十三歳で卒した。萬友は元は圬鏝(左官)を業としていたが、貴達しても本を忘れず、銀で圬鏝の器数千事を作り子孫に示した。性は猛暴で武勇を自任し、赴任先で善政はなかったが、太宗はその勲旧により恩遇を替えず、次女を許王夫人に聘した。