宋史卷二百七十一 列傳第三十 張藏英

出自と経歴

  • 張藏英、涿州范陽の人。自ら唐の宰相嘉貞の後裔という。唐末、一族が賊の孫居道に害され、藏英は十七歳で辛うじて身一つで免れた。後に居道を豳州の市で逢い佩刀で刺したが死に至らず吏に捕らえられた。節帥の趙徳鈞はこれを壮として問わず牙職に補した。藏英は後に居道が関南に避地したと聞き、関南都巡検使を求め、着任後、微服で鉄撾を携え居道の舎の側に隠れ、その外出を伺い撃って地に倒し耳を齧って食べ、生きたまま連れ帰り父母の位を設け酒肴を陳べ居道を前に縛り号泣しながら鞭打ち、その肉を三日間切り、心臓をえぐり出して祭った。すぐ官に自首して罪を認めたが、官はこれを上請して釈放した。燕薊の間ではこれを「報讐張孝子」と目した。
  • 契丹は藏英を盧台軍使・榷鹽制置使に用い坊州刺史を領させた。後周広順三(953)年、内外の親属および所部の兵千余人、煮塩戸の長幼七千余口、牛馬万計、船数百艘を率い航海して後周に帰り、滄州刺史の李暉がこれを奏聞、太祖は疑いを持ち封禅寺に館させたが数か月後に襲衣・銀帯・銭十万・絹百匹・銀器・鞍勒馬を賜った。世宗即位により徳州刺史を授けられ、まもなく召され便殿で対面し辺備の策を問われると、藏英は深州の李晏口に砦を置き境上の亡命者を誘って軍に隷させ、自らを主将とし便宜討撃を許すことを請い、世宗はことごとくこれに従い縁辺招収都指揮使とし名馬・金帯を賜った。
  • 藏英は李晏口に築城し累月で勁兵数千人を募集。鳳翔節度の王彦超が巡辺し契丹に囲まれた際、藏英は新募兵を率い馳せて撃ち十余里を転戦し契丹は囲みを解いた。濮州刺史に改め辺任を続けて領した。契丹将の高牟翰が精騎数千で辺を擾した際、藏英は葫盧河北で逆撃し旦から晡まで殺傷甚だ多く、暮れになって兵を収めると契丹は遁れ去った。後に楽寿を巡兵中、契丹幽州の驍将姚内斌が藏英の兵の少なさを偵知し精騎二千で県の北に陣したが、藏英は麾下を率い辰から申まで士はみな殊死の戦いをし内斌は解いて去った。世宗は璽書を降し褒美した。瓦橋関征討では先鋒都指揮使となり契丹騎数百を関北で破り固安県を下し、また関南排陣使に改めた。宋初、瀛州団練使に遷り関南軍を護し、建隆三(962)年、治所で六十九歳で卒した。孫の鑑には別伝がある。