出自と経歴
- 石曦、并州太原の人。後晋高祖の弟である韓王暉の子。天福中、右神武将軍とされ、後漢から後周にかけて右武衛・左神武の二将軍を歴任、恭帝即位により初め左衛将軍となった。高麗王の昭が加恩を受けた際、曦は左驍衛大将軍の戴交に副して使いとなり、建隆三(962)年、再び高麗に使し左驍衛大将軍に遷り秦州を鎮護、西人が犯辺した際は率いて撃破し渠帥十三人を斬った。太祖の後晋(北漢)征討に際し曦は兵二千を率い澤潞から道を除き太原に至り、汾水を壅ぎ城に灌ぎ、さらに兵千を益して遼州を攻め、まもなく雄州を知り潭州鈐轄に代わる。
- 開宝八(975)年、兵を率い南唐軍二千余を袁州で破り、梅山・板倉諸洞の蛮寇を平定し捕虜数千を得た。太平興国中、右神武・右羽林大将軍を歴任、孟・襄の二州を継いで知り誠州刺史を領する。雍熙四(987)年、覇州知事兼部署に改め、陳廷山が平戍軍を率い北辺に叛入しようと謀った際、曦はこれを察知し侯延済と定計してこれを禽にして献じ、功により本州団練使を加え鎮州を同知した。淳化二(991)年、原州に移り右龍武軍大将軍に遷り、病により告を請い詔で特に全俸を給され、四(993)年、七十四歳で卒し賵賻を加等された。