出自と経歴
- 張勲、河南洛陽の人。後晋開運中、留守の景延広に典客として仕え、延広の表で供奉官となる。後周世宗の淮南征討に際し勲を申州緣淮巡検とし、光州の機事を採って朝廷に聞こえさせたことから命じて兵を率い光州を平定させた。光州軍を監し内外巡検を充て、後に黄州を攻め呉人を麻城で破り、柏業山砦を破ったが目に流矢を受けた。内園副使に遷り、瀛莫征討では覇州兵馬都監となる。李筠征討では勲は石守信に従い前軍を督し大會砦を抜き、筠の衆を太行で破り澤州を破りいずれも功があった。太祖が京に還ると許州を権知させ、まもなく李重進が叛くと石守信・李処耘とともに率兵先討を詔され揚州を抜き兵馬都監となり氈毯使に遷り朗陵を討ち前軍兵馬都監を充てる。
- 荊湖平定後、功により衡州刺史を拝し、乾徳初年、彬州および桂陽監を克ち刺史・監使を兼ねた。五(967)年、代わって帰る途上、揚州で六十八歳で卒した。太祖は甚だこれを憐れみ子の廷敏を録して殿直とした。勲は性残忍で殺を好み、城邑を攻め破るたび「まず斬れ」と揚言し、無辜が刃に罹ることが多かった。衡州に赴くと聞き州民はみな涕泣し合い「張且斬(まず斬れ)が来る、我らはどうやって安んじられよう」と言った。