出自と経歴
- 吳虔裕、許州許田の人。父の徽は左屯衛将軍。虔裕は少くして郡吏となり、後漢祖が許を鎮した際にその精謹を愛され右職に署された。太原移鎮に及んで虔裕も従い開国に伴い引進使に抜擢され内客省使に転じた。鎮州節度の劉在明が卒した際、虔裕は兵を率い巡護した。隠帝即位により宣徽北院使に召され、後周太祖の三叛討伐では虔裕を河中行営都監とし護聖諸軍五千を率いて赴かせた。
- 李守貞が兵五千余を出し梯橋を設け五路に分かれ長連城の西北で太祖を防ごうとしたが、太祖は虔裕に大軍で横撃させ、蒲人は敗走し梯橋を奪い殺傷は大半に及んだ。師が還ると襲衣・玉帯を賜る。枢密使の楊邠が解職を求めた際、隠帝は人を遣わし邠に「枢機の任は卿でなければならない。なぜ間離の言を聴きこれを請うのか」と諭したが、使いが至った時虔裕が坐にあり「機要の重地は久しく処すべきでない。後来の者が交代するのがよい」と大声で言い、使いが戻って帝に告げると帝は怒り、虔裕を鄭州防禦使に出した。乾祐末年、諸大臣が急ぎ入朝を詔された際、澶州および留子陂の防衛を命じられたが戦いに敗れ後周太祖に降った。
- 後周広順初年、還され襲衣・玉帯・鞍勒馬を賜り、太祖の慕容彦超討伐に従いこれを破り汝州防禦使に改める。右衛・左金吾衛の二大将軍を歴任し街仗使を兼ね、太平興国六(981)年、右千牛衛上将軍に遷り左街仗事を判し続けた。虔裕は金吾を掌ること三十余年、端拱初年、八十八歳で卒し太尉を贈られた。虔裕は性簡率で言葉に軽率さが多かった。右金吾上将軍の王彦超が告老した際、虔裕は人に「私はたとえ殿階の下に倒れ伏そうとも王彦超のように七十で致仕することは学ぶまい」と語り、人々に笑い伝えられた。朝会や遊宴のたび太宗はその高齢を憐れみ慰撫した。子の延彬は儀鸞副使に至り、延彬の子の仁美は内殿崇班に至った。