出自と経歴
- 張廷翰、冀州信都の人。父の慎図は後周に仕え兵部郎中となる。廷翰は少くして慷慨で智略あり騎射をよくした。後晋天福中、冀州刺史の張建武が牙校に補し、その後、刺史の李冲が本州牢城軍校に署した。契丹が中原に入り、その党の何行通を刺史に署したが、契丹主が道の途中で殂すと、州人は共に行通を殺し廷翰を推して州事を知らせた。後漢初、そのまま刺史を拝し、廷翰は行通を殺した者を悉く捕らえ処刑して市に晒した。政は寛厚簡易で民は甚だこれを愛した。後周広順初年、闕に召され、太祖はその容貌の魁偉を見て枢密使の王峻に「冀州は辺に近く、あらためて人を選んでも廷翰を超える者はいない」と語り、その日に還らせた。郡に在ること八年、契丹将の高牟翰がしばしば辺を擾したが、みな廷翰に撃退された。
- 廷翰の家は財に富み、歳ごとに人を遣わし金帛を齎して北方に入り善馬を市い常に数百匹を得た。貢献の外はことごとく貴近に贈り甚だ美誉を得た。顕徳中、棣・海・沂の三州団練使を歴任、しばしば淮人を破り莱州に移り、宋初、また冀・亳の二州を歴知、乾徳二(964)年、四十七歳で卒した。