出自と経歴
- 馬令琮、本名は令威、後周太祖の名を避け改名。大名の人。父の全節は伝が『五代史』にある。全節は横海・定遠・昭義・彰徳・定武・天雄の六節度を歴任し、いずれも令琮を牙校に署した。累進して彰徳牙内都指揮使・検校尚書左僕射・勤州刺史を領した。令琮は少くして騎射をよくし、父に従い安州を平定し、鎮州の安重栄と戦い功を挙げ知られた。後晋開運二(945)年、全節が卒すると令琮は起復し隰州刺史を拝した。後漢祖の建国により西京巡検使、後周太祖の受命により陳州刺史に改め、兖州征討では京城四門外巡検となる。世宗嗣位により隨州に移り、顕徳二(955)年、入って虎捷左第一軍都指揮使、六(959)年、建州刺史を兼領。
- 太祖即位により懐州知事に出た。李筠の叛乱に太祖が親征しようとし三司の張美に軍糧を召した際、美は「河内は上党に近い」と言い、令琮は昼夜に儲蓄して王師に備えており、太祖はこれを善しとして団練使を授けた。執政は「令琮がまさに大軍を供給しているので他郡に移すべきでない」として懐州を団練州に昇格させ令琮を使とし、先鋒都指揮使も兼ねさせた。澤潞平定後、昭義兵馬鈐轄となり、年を越えて病を得、詔により郡への帰りを許され、乾徳元(963)年、三十九歳で卒した。太祖はこれを甚だ憐れみ、子の延恩を録して殿直とした。