出自と経歴
- 邊珝、字は待価、華州鄭の人。曽祖の頡は石泉令、祖の操は下邳令、父の蔚は太常卿。珝は後晋天福六(941)年、進士に挙げられ秘書省校書郎・直洪文館を授けられ、後漢乾祐初年、右拾遺・朝散大夫を加えられる。澤州の飢饉に際し民田を視察する詔を受け、後周広順元(951)年、右補闕に遷り、三(953)年、起居舎人に転じ、顕徳二(955)年、庫部員外郎に改められ、父の喪に丁り服闋後は職方員外郎を授けられ通州知事となり、狼山で鹽を鬻ぐ課税を歳ごとに万余石増やした。宋初、衛州に赴き秋の穀物を視察し京倉を掌る。建隆二(961)年、兄の玕が河南令から吏部員外郎に入ったため、珝を洛陽令とし、兄弟が交互に赤県の尹となったことを時人は栄とした。
- 乾徳初年、倉部郎中に召され、蜀平定後は珝を三泉県知事とし、開宝初年、職方郎中に遷り京兆の麹務を監し、永安軍の榷貨も掌り務を揚州に移すことを奏した。富民が広陵尉の謝図が父を殺したと訴え、本部が尉を収監し推劾すること三百日にわたり獄が定まらなかった事件を州が上奏、詔により珝が案鞫すると、富民が私憾で誣告し尉を反坐させたことが分かった。権知州事を命じられ榷貨務を兼ね、郡を罷めた後は酒税・鹽礬務も兼掌、まもなく母の喪により起復し州事を知る。江表征討に淮南転運使を兼領し、金陵平定後は江北諸州転運事を知る。
- 太宗即位により吏部郎中に遷り召還され金紫を賜り広南転運使を充てる。桂州に至った当初、守の張頌が卒し(濰州の人で藁葬され城外にあり、旧制で族を伴い還らせないため)僕人がその家財を分けて匿していたのを、珝は官吏を召してすべて追い取らせ柩を送って濰州に帰した。また郡守と護軍とで忿争があった際、易地させるにとどめ罪過に問わなかった。太平興国五(980)年、召還され右諌議大夫を拝し吏部選事を領し、七(982)年、開封府知事に移り、翌年夏、六十三歳で卒した。珝は精力があり吏才があり帝はまさに重用しようとしていたところで、その卒を聞き数度嘆惜し、絹四百匹・銭二十万を賻した。珝の一子は早卒し、従子の俊を尉氏主簿とした。兄の玕は金部郎中に至り、弟の玢は右賛善大夫、従子の倣は殿中丞に至り、倚は比部員外郎となった。