出自と経歴
- 趙逢、字は常夫、媯州懐戎の人。性は剛直で吏幹があった。父の崇は劉守光に仕え牙校となったが、後唐天祐年間、荘宗が周徳威を遣わし幽州を平定した際、崇は誅された。逢は幼く、徳威が部曲に録し諸子とともに学ばせたが、徳威が胡柳陂で戦死すると、逢は河朔間を遊学、後に西へ鳳翔の李従曮の門下に客居、従曮の卒後は侯益に仕え、後漢乾祐年間、益が入京し開封尹となった際、逢を巡官に表したが、逢は喜ばず進士挙を求め、この年、礼部侍郎・集賢殿学士の司徒翊が貢挙を典し、甲科に登り秘書郎・直史館を授けられた。
- 後周広順年間、左拾遺・右補闕を歴任しともに史職を兼ね、世宗嗣位後、礼部員外郎・史館修撰に遷り、顕徳四(957)年、膳部員外郎・知制誥に改められ、年を越えて水部郎中に転じ誥命を掌り続け、恭帝即位により金紫を賜る。宋初、中書舎人を拝す。太祖の澤潞征討に従い河内に至った際、李筠が兵を擁して侵寇するのを聞き、また太行の険を懼れ、落馬して足を傷めたと偽り懐州に留まった。帰京の際、密旨により除拝すると当草制の任にあったが再び疾と称して従わなかった。太祖は宰相に「この者は行役を規避する者ではないか」と語り、「まことに仰せの通りです」との答えを得て房州司戸に貶し、恩に会って汝州司馬に量移された。
- 乾徳初年、闕に召され都官郎中・知制誥・史館修撰を授けられ判館事を充て、二(964)年、判昭文館に改められ、まもなく枢密直学士を充て左諫議大夫を加えられる。蜀平定後、閬州知事に出て州内の盗賊が州城を攻めた際に防禦に功があり、賊平定後の誅滅者は千家近くに及んだ。妻の朱氏が京師で病死し葬事を給する詔があり、代わって還った際、給事中に遷り職を充てる。六(968)年、貢挙を権知す。太祖の太原征討で逢を随軍転運使とし印を鋳して賜った。諸道の丁壮数十万を発し堤を築いて汾水を壅ぎ晋陽城に灌ぐ計画があり、逢は太祖に効用を願い出て版築を督させられ、盛夏の中、烈日のもとで自ら力役を課し、疾を得て京師に輿で帰り、開宝八(975)年に卒した。逢は清近な官を歴任したが、慘酷を傷み言葉も詆訐が多く、縉紳は「鉄橜」と目した。大中祥符三(1010)年、特に詔してその子の極を三班借職に録した。