出自と生涯
- 幽州安次の人。本名胤、太祖(趙匡胤)の偏諱を避けて字で行った。祖父兗は横海軍節度判官、父琦は晉兵部侍郎。蔭補で千牛備身から開封府参軍、戸曹掾。晉少帝の弟重睿の忠武軍節度推官、漢を経て周で濮州録事参軍。
- 太祖が同州節制の頃、余慶の才を聞き従事として奏せられた。世宗が「濮州の紏曹だった者か」と即座に定国軍掌書記に任じたのは、世宗自身が澶淵鎮の頃、濮州が属郡でその人となりを知っていたためであった。太宗が滑・許・宋三鎮を歴任する間も賓佐として仕え、即位後は給事中充端明殿学士(父琦もかつて同職にあり栄誉とされた)。
- 開封府知事、太祖の潞州・揚州征討で上都副留守を兼ねる。建隆三年(962年CE)戸部侍郎、母の喪、荊南平定で知潭州・襄州、兵部侍郎知江陵府を経て参知政事に召還。蜀平定で成都府知事となり、王全斌ら軍士の驕慢を、酒に酔い刃で商人の物を奪った軍校を即座に斬って軍紀を粛正した。
- 吏部侍郎に加えられ帰朝、剣南荊南等道都提挙三司水陸発運等使を兼務。開寶六年(973年CE)宰相と政を交代したが病により拝尚書左丞を求め、九年(976年CE)卒、享年五十、鎮南節度を贈られた。
- 重厚簡易な性格で、太祖の藩鎮時代から元僚でありながら、受禅後に趙普・李処耘が先に登用されても意に介さなかった。李処耘が淄州に左遷された際、江陵から戻った余慶が事情を弁明し太祖の疑念を晴らした。趙普が忤旨した際も左右が趙普を追い落とそうとする中、余慶は独りその名誉を弁じ太祖の態度を和らげた。時人は長者と称した。至道中(995-997年CE)弟端が宰相となり侍中を特贈された。