出自と生涯
- 京兆萬年の人。孤高寡合の性で、曾祖朏・祖遠・父貫は皆刺史。若くして学を好み詩に優れた。僖宗の蜀行幸に伴う長安の兵乱を避け山谷に隠れ、梁乾化中に邵王友誨に進士挙を通じて認められ、後に及第。華山に隠居後、邠帥韓恭・華帥李保衡に幕僚として仕えた。
- 朱友謙の河中反乱に伴う荘宗の華州攻撃で、外城修築を進言し軍民を救った。皓の死後は田里に帰り、著作郎・右拾遺として召されるも上書で忤旨し鄧州節度推官に左遷。後唐同光中、魏王継岌の蜀征討に廵官として従い、記室参軍に。
- 明宗即位後、周帥羅周恭の掌書記となり、罷官後は華陰に隠居し「小隠詩」二十首を著した。秦王従栄に才を認められ祠部員外郎・水部郎中知制誥・中書舎人に累進。晉初、金紫を賜り弘文館史館事を判じ、晉祖の速効政治を「漸治論」で諫めた。
- 御史中丞・右丞・吏部侍郎・左丞・判吏部銓を歴任。選挙制度の実務改善を提言し採用された。晉祖の大梁遷都時、台省の狭隘さを指摘し年間二百万銭の省庁維持費を得た。
- 周朝で名の「簡」を避けて「易」とだけ名乗り、廣順初(951年CE)礼部尚書・三銓合一の判官、のち刑部尚書、兵部判、四廟冊立の副使、周祖の山陵副使を歴任。顕徳四年(957年CE)告老し太子少保として致仕、宋初少傅を加えられる。
- 華陰の邸に「一鳴堂」「二品楼」を構え悠々自適の余生を送り、建隆四年(963年CE)四月、病なく卒した。享年七十九。子の景讓は進士及第、尚書郎に至った。