出自と生涯
- 河中河東の人。若くして驍勇で応募し奉国営に隷す。漢乾祐中、周祖の李守貞討伐に麾下として従い、鄴の部直小将となる。周廣順中、世宗が澶淵にいた頃親事都校に遷り、開封尹の下で開封府歩直指揮使となった。
- 顕徳初、内外歩軍都軍頭となり泉州刺史を領し、岳州防禦使に改まる。寿州征討に従い竹龍(城攻め用の竹製構造物)都部署として渦口の橋を築いた功により鎮淮軍が立てられた。李継勲が淮上の失律で軍職を罷免されると、彦がその後任として武信軍節度・権侍衛歩軍都指揮使、のち淮南道行營馬歩軍副都指揮使となった。
- 太祖の滁陽攻略で皇甫暉・姚鳳を捕らえるのに功があり、下蔡屯兵で寿春に迫り劉仁贍の降伏を導いた。世宗の濠泗攻略にも従い南唐将許文績・辺鎬らを捕らえて献じた。師の帰還後、歩軍都指揮使・彰信軍節度を領す。
- 六年(959年CE)、五丈河の開削を督す。恭帝嗣位で保義軍節度に移り、宋初検校太尉、曹州に改鎮。乾徳六年(968年CE)静難軍節度、開寶二年(969年CE)鄜州、五年(972年CE)罷鎮し帰闕、卒、享年六十六。景徳四年(1007年CE)、孫の昭慶を特に録され、のち大中祥符八年(1015年CE)、昭慶が二聖(先帝二代)の名を避諱すべき告勅を上呈したため殿直に特進した。