宋史卷二百五十五 列傳第十四 向拱

生涯

  • 字は星民、懐州河内の人、初名は訓。周恭帝の諱を避け拱と改名。倜儻で気節に富み、弱冠で漢祖の招致に応じようとした途中、盗賊に遭遇したが機知で逃れ太原へ着き漢祖に仕官を望んだが用いられず周祖の門下に。周祖の節鎮就任で知客押牙、即位後宮苑使、廣順中皇城使、并州の侵攻に対し廵検陳思讓と虒亭南で三百余を殺し百人を捕らえ帥王璠・曹海金を捕虜、壺関でも敵軍を破った。慕容彥超討伐で都監、賊平定後陜州廵検、客省使知陜州。延州髙允權卒後の後継争いに際し拱が権知州事、内客省使。軍装・兵器の民間売買禁止令、侵盗する部落への懐柔策など辺境統治に成果を挙げた。
  • 劉崇入寇で樊愛能・何徽の監護、高平の戦いで精騎を率い義成軍節度・河東行營前軍都監、陳州に出鎮。秦州・鳳州の情勢に応じ王景と共に大散関から出兵、蜀軍の糧道遮断の企みを察知し伏兵で大破、監軍王巒・孫韜ら千五百人を捕虜。秦鳳階成の州邑が望風潰走、金祥殿で厚遇を受けた。顯徳二年世宗の淮南親征で拱は権東京留守兼判開封府事、揚州平定後の韓令坤の動揺を見て急遽淮南節度・宣徽使兼緣江招討使に召され軍紀を粛正。秦鳳の功で檢校太尉。夀春包囲の長期化に対し揚州の兵力集中を進言し採用、封庫し秋毫犯さずの軍紀で民心を得た。李重進と合流し夀州を攻略、淮南道招討都監・武寧軍節度、夀州克後同平章事、四年歸徳軍節度、淮南平定で山南東道節度、西南面水陸発運招討使。恭帝即位で檢校太師・河南尹西京留守、宋初侍中兼加。太祖の李筠親征に際し「早く大河を渡り太行を越え未集の敵を討つべき」と進言、これが功を奏し筠は澤州で捕らえられた。
  • 乾徳初年郊祀で譙國公封。河南尹十余年、庭園と第宅の整備・声妓・宴飲に耽り政務が乱れ盗賊が横行、太祖の怒りを買い安州に移鎮、焦繼勲に代えられた。太平興國初年秦國公封、左衛上將軍、八年王彦超に代わり左金吾衛仗事を判じ西京長夏門北園を献上、雍熙三年年七十五で卒し中書令を追贈。咸平初年真宗は拱の後裔の困窮を聞き孫の懌を国子助教に録した。子の徳明は洛苑使、孫の悅は虞部郎中。