宋史卷二百五十四 列傳第十三 趙贊

生涯

  • 字は元輔、本名は美、幽州薊の人。祖父の趙徳鈞は後唐盧龍節度・北平王封。父の延夀は明宗の女興平公主に尚し樞密使・忠武軍節度。贊は幼くして聡慧で明宗に愛され、七歳で書二十七巻を誦して童子挙に応じ神童及第を賜った。延夀の宣武軍出鎮で牙内都校を署され、清泰末、晉祖挙兵時に契丹の援を受け晉に降った父祖に伴われ契丹に連れ去られたが、贊のみ母の公主と共に西洛に留まった。天福三年薊門へ帰り契丹の金吾將軍を務め、後に父の范陽節度で牙内都校、開運末父の南侵謀に関与、平原陥落後は河中節度を受けた。
  • 延夀の契丹北帰に従わず河中に留まり、漢祖挙兵に勧進の表を奉じて檢校太尉・河中鎮・京兆尹・晉昌軍節度。漢の疑念を恐れ蜀へ内応を図ったが、判官李恕の諫言(「漢は建国したばかりで懐柔に努めるはず、素直に朝廷に帰れば富貴は保てる」)を受け入れ、贊は自ら朝廷に入り、漢祖は「贊の父子も契丹の被害者、容れないはずがない」と左驍衛上將軍に用いた。後周では左右羽林・左龍武三統軍を歴任し、世宗の淮南征討で夀州城外の廵警、淮南道行營左廂排陣使として東面を担当し秋から冬まで挫けず、撤退時にも一片の瓦も残さぬ整然たる軍規で恐れられた。呉将魯公綰の軍を楊承信と共に破り、造橋の役では濠人の夜襲を伏兵で撃退、羊馬城の攻略でも矢を受けながら力戦し刺史唐景思を討ち取り城を降した。
  • 淮南平定で保信軍節度、盡く苛政を除いて民に慕われた。恭帝即位で開府階、宋初檢校太師・忠正軍節度、揚州平定に従軍、延州移鎮では便宜行事の密旨を受け整然と兵を配して羌渾を懾服させた。乾徳六年建雄軍節度、太原征討で邠州路部署、開寶二年河東行營前軍馬歩軍都虞候として太祖親征に従い西偏を守り抜き弩矢で足を負傷、太祖から見舞いを受けた。四年鄜州移鎮、太宗即位で衞國公封、太平興國二年入朝直前に年五十五で卒し侍中を追贈。書を知り詩を好み、士大夫に礼を尽くしたと評される。