宋史卷一百九十五 兵志第一百四十八 兵九(訓練之制)

訓練制度の概要と仁宗前期

  • 禁軍のうち月奉500以上は毎日武技を習い、300以下は労役か技藝習得のいずれかにあたった。後に別途募集された廂兵も武技を習うようになり「教閲廂軍」と呼ばれ、川広に戍する軍はもと訓練しなかったが嘉祐(1056-1063年)以降習うようになった。日々の訓練は鼓の合図に従い、騎兵5習・歩兵4習を基本としたが、これは実戦の隊列運用とは異なるものの宋初以来続いていた。
  • 明道2年(1033年)、樞密使王曙は「廂下軍は労役のみで武技を習っていないので、材勇の者を訓練し禁軍に昇格させるべき」と上奏し許可された。康定元年(1040年)、帝は便殿で諸軍の陣法を閲兵、議者は「坐作進退は整然としているが実戦では役に立たない」と指摘、解鐙しての弓弩射撃訓練(弓3等・弩4等の規格)を定めた。同年、鎧甲を着けない兵の実戦不足も指摘され、諸軍に鎧甲・馬甲の交代着用を命じた。
  • 慶暦元年(1041年)、訓練の不十分な辺兵を内郡に移し習得後に戍させる方針。慶暦2年(1042年)、射の的中率による賞罰制度、校長の欠員補充は籍の成績上位者から選ぶ規定。樞密直学士楊楷は騎兵の射撃訓練基準(9斗〜7斗3等)を提案し許可された。慶暦4年(1044年)、帯甲での発矢不能者の乗馬没収規定。韓琦は「教習は体裁だけで、強弓・射的の実戦力が伴っていない」と指摘し、春秋2回の閲兵と等級に応じた褒賞制度(第4〜7等は賜物、第3等以上・挽強蹠硬合格者は皇帝親閲)を提案し許可された。
  • 慶暦5年(1045年)、河北軍士を陝西陣法で訓練。慶暦6年(1046年)、益・利・梓・䕫路で民間の動揺を避けつつ弓弩訓練を密かに実施する方針。并州の明鎬は武技を3等に区分し帯甲で試験する提案をし許可された。范仲淹は帯甲射1石を「奇兵」の基準とすることを提案し許可された。慶暦8年(1048年)、夏季の弓弩訓練停止・短兵訓練への切替、春秋大教での基準(弓1石4斗・弩3石8斗)、槍刀手の勝負判定による武藝出衆格を定めた。
  • 至和元年(1054年)、将校選抜は射の正確さ(射親)を重視する方針。韓琦は「弩4石2斗・弓箭槍手の選抜規定が形骸化している」と指摘し、優秀者への恩賞と本営免役を求めた。治平2年(1065年)、河北の戦卒30万1千・陝西45万900余(義勇含む)を総管司が訓練する体制を整備。

神宗期の訓練強化

  • 煕寧元年(1068年)、兵を管理する官の冗員による訓練の不徹底を戒める詔。10月、樞密院は河北諸路の指使教習を三班使臣・士人任殿侍者に担わせる案、河朔軍の教閲名目化への対策(班敎法未達者は廂軍降格)を奏請し許可された。
  • 煕寧2年(1069年)、帝が辺境訓練の精度向上策を問うと、王安石は「京東の教兵はすでに精強である。この方式を辺将にも適用し、皇帝が直接閲試して優劣を賞罰すれば士卒は奮励する」と答えた。9月、殿前司・馬歩軍司に巡教の指使を配置。
  • 煕寧3年(1070年)、河東の教練排手(前進後退の巧みさ)を評価し、殿前司歩軍指揮の出戍者から槍刀手の精鋭百人を選び河東法で教習。煕寧5年(1072年)4月、在京諸軍の巡教使臣による春秋の射撃試験と成績記録制度。5月、涇原路蔡挺の衙教陣隊法(5伍1隊、5隊1陣で横列、騎兵は2隊で編成、藁人形を的にした実戦形式の訓練)を全国に頒布。
  • 煕寧6年(1073年)、河北4路の軍制改革(京東武衛等62営を諸路に分番教習として配属)。9月、巡教使臣の成績評価基準(10分率で評価し、成績優秀者は罰を免除、成績不良者は賞を削減)。10月、涇原の善射の土兵を選んで河朔騎軍に馳駆・野戦を教習させた。帝は「軍営統合で節減した4千余の兵員費用は10万軍の資に相当する。訓練が精緻になれば財政にも資する」と述べた。この時期、皇帝は10日に1度便殿で親閲する「内教法」を新設した。
  • 煕寧7年(1074年)、教閲戦法は主将が地形に応じ裁量する方針。2月、5路の安撫使以下・教閲提挙官の優劣評価と誅賞の制度。8月、在京諸軍の馬調練不足を補うため4教場を新設し輪番教習。5月、臧景が馬射6事(順鬃直射・背射・盤馬射・射親・野戦・輪弄)の技法を上奏。8月、曽孝寛が荊家陂で八軍の陣を大閲。
  • 元豊元年(1078年)10月、京師での技藝試験基準を細かく規定(歩射・馬射・弩射・床子弩・炮の的中数による上中下三等区分、不合格の判定基準として弓弩の墜落・矢の逸脱・弓破損等を列挙)。同月、東南排弩隊法の改定(弩手が小排の代役、槍手は標を併用)。11月、京西将劉元の馬軍教習不振に伴う段階的降格規定(馬軍→歩軍→廂軍)。12月、開封府界・京東西の将兵の1割を馬射専門とし、在京歩軍諸営の弓箭手も同様の分業教習を実施。
  • 元豊2年(1079年)4月、内侍石得一による京西第五将の馬軍教習視察で不振が判明し、担当の陳宗らが処罰(勒停)された。同月、殿前・歩軍司に都教頭を新設(弩手5営・弓箭手10営・槍刀標排手5営に各1名)。河東・陝西の馬軍馳射訓練期間の規定(8月から翌5月まで)。7月、教閲禁軍の期間制限(2時季を超えない)。9月、教法格・図像を頒布し軍士に暗誦させた(歩射・馬射・野戦格闘の法象千余言)。
  • 元豊4年(1081年)5月、東南諸路での新教閲法による軍士負担の実態調査。6年(1083年)、郭忠紹の請願により歩軍弩手第1等に神臂弓を兼習させた。7年(1084年)8月、開封府界・京東西路の監司に教閲監督を専任させた。神宗は武学を設けて『武経七書』で武挙を訓練し、兵法を頒布して自ら軍旅の妙を極めたと評されている。

元祐〜徽宗期の変遷

  • 元祐元年(1086年)4月、右司諫蘇轍は「諸道禁軍は昼夜武藝を習い、新募の兵は休息もままならない。禁軍は新募未習の者を除き月1教に減らすべき」と上奏。朝請郎任公裕も「新法の型を機械的に暗誦させる弊害」を指摘し、樞密院も「教授者の裁量に任せるべきで兵衆に暗誦を強制すべきでない」として改められた。9月、樞密院は馬射法の改定(順鬃直射・背射を隔日で交互に教習)を上奏し許可された。
  • 元祐3年(1088年)5月、教習馬軍所の廃止。元祐6年(1091年)6月、教閲の中断(70日ごとの令式に基づく)。王巌叟は「景徳の故事では内侍省が中継していた恩意が形骸化している」と指摘し、太皇太后への言上を経て改めて中侍による伝宣の形式に戻された。
  • 紹聖元年(1094年)、禁軍の春秋大教の賞法(千人ごとに210人へ加賞)。紹聖2年(1095年)、馬軍の10日に1度の出城教習規定、悪天候時の休止規定。紹聖3年(1096年)、格闘法を元豊条法に統一、神臂弓の兼習拡大。紹聖4年(1097年)、神臂弓の射程改定(120歩)。
  • 元符元年(1098年)、曾布は「祖宗以来、将士への恩は君主に、軍政の威令は管軍に帰すべきであり、朝廷が個別に法を立てて執行させるのは管軍の職責放棄にあたる」と論じた。政和元年(1111年)、春秋大教の弓弩基準を元豊旧制に復す詔。政和4年(1114年)、神臂弓の的中判定の緩和(120歩の的で5中を合格とする基準を上垜方式に変更)。政和5年(1115年)、教閲を怠る将兵への違御筆論の適用。11月、成績評価の褒賞不足への対応。政和8年(1118年、宣和元年)、出戍後も5割を州に留め教閲させる毛友の提案。
  • 重和元年(1118年)正月、兵部侍郎宇文粋中は禁軍訓練の低調と雑役化を指摘し、帝は「祖宗・神宗の軍旅の法は緻密だったが近年は将官が緩んでいる。古の春振旅・夏茇舎・秋治兵・冬大閲の制も農閑に行われたもので、今の官が農事や訓練を職責と意識していない」と応じ、粋中の上奏に基づき条令が整備された。宣和3年(1121年)、騎射賞法の新設。靖康元年(1126年)2月、招軍が数のみを追い教習が疎かな実態を戒め、神臂弓・馬黄弩の教習強化を命じた。

陣法の変遷

  • 煕寧2年(1069年)11月、趙卨は諸葛亮の八陣法を求め、郭逵と共に地形に応じた陣図を定めるよう命じられた。煕寧5年(1072年)4月、蔡挺が教閲陣図を進呈。神宗は「今の辺臣は奇正の理を知らない。五行の数は5×5に過ぎず陣の変化は自然に出るもので強いて作るものではない」と述べ、宰相韓絳の提案により諸帥臣に戦陣法を献上させ長所を採った。李靖の「3人1隊」の故事も引かれ、賈逵・郭固に試させた。知通遠軍王韶には御製攻守図・行軍環珠・武経総要・神武秘略・風角集古の各1部が下賜された。
  • 煕寧6年(1073年)、諸路経略司の結隊法を李靖の3人1小隊・9人1中隊制に統一。趙卨は大閲の陣容(漢蕃陣隊1万2500人、方色による旌旗、8隊の旗に天地風雲龍虎鳥蛇を配す案)を提案したが、樞密院は「象りにくい図案がある」として方色のみの簡略化を採用した。
  • 煕寧7年(1074年)、呂恵卿・曾孝寛による3・5結隊法の比較検討を経て新結隊法・賞罰格・陣形を趙卨に付与。神宗自ら「一大隊5中隊(50人)、1中隊3小隊(9人)、1小隊3人」の新編成を定め、隊内の相互救援・連座責任の規定(小隊は中隊が、中隊は大隊が救援し、救援を怠れば擁軍校が斬に処す)を精密に設計した。議者は「45人に1長より5人に1長の方が緻密」との異論も示したが、周制の五人一伍から命卿に至る階層制との対比も論じられた。
  • 煕寧7年7月、諸路安撫使に陣隊法の調査・報告を命令。9月、崇儀使郭固が古今陣法の対照研究の成果を上奏、攻守図25部を河北に頒布。煕寧8年(1075年)2月、七軍営陣の試験結果の不整合を受け八軍法の再検討を命令。樞密院は李靖の兵法(『通典』に散逸的に残る)を今日通用する用語に整理する作業を命じ、張誠一・李憲・王振・王白・郭逢原らが検討にあたった。馬歩軍2800人を用いて李靖の営陣法を試験し、楊遂を都大提挙とした。李靖の六花陣法(2万人を7軍に分け、各軍2800人、戦兵1900人・弩手200・弓手300など細目)に基づく編成を試みた。
  • 神宗は近臣に対し、黄帝の八陣法(涿鹿の戦い)、諸葛亮の八陣図(魚復平沙)、桓温の「常山蛇勢」評、隋の韓擒虎から甥の李靖への伝授と六花陣による九軍法の変形の経緯を説き、「八陣は方陣(内円外方)、六花陣は円陣(内外とも円)」との理論を示した。さらに9軍(前後・左右虞候・左右廂各2・中軍)は宋の殿前・馬歩軍3帥、馬歩軍都虞候、四廂(天武・捧日・龍・神衛)に対応すると論じ、当時流布していた唐の李筌『太白陰経』の陣図を「妄りに惑わすもので採るに足りない」と批判した。8月、荊家陂で8軍の陣を大閲。
  • 煕寧8年(1075年)、権住教の五軍陣を停止し四御陣のみ教習。煕寧9年(1076年)4月、帝と輔臣が営陣法(大将を心、諸軍を四体に喩える論)を議論。元豊4年(1081年)、九軍法を1軍営陣に絞り好草陂で按閲。煕寧7年に頒布された「五陣法」(方・円・曲・直・鋭)により旧教陣法は廃止された。
  • 元祐元年(1086年)、高翔の請願により御陣と新陣法の併教が復活(元豊7年〔1084年〕に五陣法専用となり御陣が廃止されていたのを再び併用)。紹聖3年(1096年)、御陣教習が再度廃止。大観2年(1108年)、五陣法を諸路に頒布。靖康元年(1126年)、監察御史胡舜陟が通直郎秦元の兵書(陣図・師律三策・大八陣図・小図2)を「古法と今の実情を折衷した実用的なもの」と評し、対面での検討が命じられた。当時の君臣には英謀遠略こそなかったが、切実に経武を心がけていたと評される。

南渡後の訓練

  • 高宗建炎元年(1127年)、樞密院の教閲法(制禦・推鋒破敵の技、全副武装での出入り、短樁・神臂弓・長柄刀・馬射での木梃穿甲などを含む)を頒布。神臂弓は1日20箭、射程120歩、刀は1丈2尺以上を氈皮で包み52回の連続突きを地面に触れずに行う基準。各営から20人を選抜し、経験者50人で1隊を編成、5軍に分けて訓練した。5軍にはそれぞれ旗号(前軍は緋旗・飛鳥、後軍は皁旗・亀、左軍は青旗・蛟、右軍は白旗・虎、中軍は黄旗・神人)を配し、招旗・分旗による合陣・分隊・伏兵・奇兵の合図法も整備された。春秋大教の褒賞は海行格法に準じた。李綱は南方での水戦の利を説き、河・淮・江の帥府要郡に戦船建造と火攻訓練を求め、楊観復が江浙で措置にあたった。
  • 紹興3年(1133年)、鎮江の登雲門外で水軍を親閲。紹興4年(1134年)、内殿で神武中軍官兵の褒賞。紹興24年(1154年)、州郡禁卒の訓練不足を戒め旧制の厳守を要求。紹興31年(1161年)、州廂禁軍・土軍の私役による教閲妨害を戒め帥府に訓練徹底を命じた。
  • 孝宗乾道2年(1166年)、候潮門外・白石で三衙率将佐の閲兵、将校の大刀技を見て褒賞。乾道4年(1168年)、茅灘での教閲(黄旗で方陣、白旗で円陣、赤旗で鋭陣、青旗で直陣と変化する演習)で東西に分かれ大刀・火砲を披露、李舜挙は「陛下自ら訓練を統轄し士気は倍増している」と奏した。乾道年間、弓弩手の射撃基準の段階的引き上げと進秩推賞規定。虞允文は「拍試(斗力測定)による賞と射親(命中)による賞のバランス」を献策。
  • 淳熙年間(1174-1189年)、槍手・射鉄簾格の新設。周必大は「久しく実戦のない兵は気力が衰えるが、陛下の激励で人々が奮起している」と評した。射鉄簾合格者は1840余人に達し、進秩・賜銭の規定が細かく定められた。紹熙元年(1190年)、殿司の許浦水軍・江上水軍の月次教閲。知徽州徐誼は「弓6割・弩2割・槍牌2割の配分基準、斗力と射親を組み合わせた評価が適切」と述べ、諸路に遵守が命じられた。執政胡晋臣は「射鉄簾の褒賞が濫用気味」と指摘し、以後は武藝精熟をより重視する方針となった。
  • 紹熙2年(1191年)、樞密院は殿・歩司諸軍の帯甲での弓・弩・槍の合格基準を精緻に定め、各軍の優秀者を審査のうえ樞密院で再試験し進秩・賜銭とする制度を整備。慶元2年(1196年)、候潮門外での大閲。嘉泰2年(1202年)、按閲の褒賞を慶元2年の例に準拠。宝慶2年(1226年)、莫沢は「州郡禁軍は本来防盗・戎行に備える実録の兵だが、州郡の軍政が荒廃し窠占・私占が横行して教閲は形骸化し、寓公が数百の兵を私的に借用する事例まである」と指弾し、監司・守倅の借用禁止の厳格化を求めた。
  • 淳祐11年(1251年)、台臣は軍匠(工芸に従事する兵)が本来の訓練を怠っている実態を批判し、営伍への復帰と訓練徹底を求めた。咸淳初、臣僚は「統領・統制・正将・副将は本来軍中で訓練にあたるべきだが、江南州郡・沿江制閫では帳前官が私的な営運に専従し、実員2、3千の1軍に使臣が5、6百人もいる」と乱脈を批判。咸淳9年(1273年)、臣僚は「募兵が数合わせに終始し刺字後は教閲もされず、主兵官の過酷な使役に耐えかねて逃亡・死没する者が続出している」実情を報告し、新募兵を既存の隊に編入して訓練を徹底するよう求めたが、訓練の制度は既に大きく崩壊していたと総括されている。