宋史卷一百七十八 食貨志第一百三十一 食貨上六(役法下振恤)
元祐差雇併用論争
- 中書舎人蘇軾は詳定役法所で「役は雇うべきで差すべきでない、ただ雇役の実費以上に民から取ってはならない」と説いたが、司馬光は同調せず、差役実施後に「雇募不足の場合のみ定差を許す」との命令が出て号令が一定しないことを問題視し、転運使が一路一法を強いて州県の実情を無視することを批判、州県・監司の陳情ルートを整えて詳定所は監司州県の適否判断のみを職務とし、一路一州一県の風俗による全国一律の運用を避けるべきと論じた。
- 未幾、諸路の坊郭五等以上・単丁女戸・官戸寺観三等以上で従来免役銭を輸していた戸は五分の一を減じ、それ以下は全て免除、元祐二年から衙前重難・綱運の支酬は坊塲河渡銭を優先しそれでも不足の場合のみ六色銭を充てる制とされた。弓手を正身雇用とする方針に対し、御史中丞劉摯は郷里の弓手が家族・宗族の目を持ち土着で逃亡の恐れがない利点、雇募だと浮惰の者が集まり盗賊が横行する恐れを説き、五路(熙寧以前身自執役)については正身差役を厳格化し他路は新旧混合とすることを提案、侍御史王巌叟・監察御史上官均も同様の懸念を示しつつ、応差戸に代人を立てる仕組みの合理性を論じた。殿中侍御史呂陶は転運司との協議に基づき役年増減の詳細な提案(戸多の郷は十二年、少ない郷は九年周期で通輪し、稅額に応じ日数を按分、衙前は招募で坊塲銭を充てる)を行い、これが最も妥当とされた。
- 議論が長引く中、文彦博は差役法の議局設置を非難し、詔で詳定局は罷められ役法は戸部専管となった。諫議大夫鮮于侁は開封府の官戸過多の問題(祥符県で一戸のみが応差の例)を指摘し、班行授与者の免役条件も定めた。三百緡以上の免役銭を輸す戸をなお輸させる旧法に対し、王巌叟はその不公平(析居・売業による負担逃れ)を批判し、以降百千以上輸す戸にも六色銭を課して番休を優厚にする方向が示された。元祐二年、翰林学士兼侍読蘇軾は雇役・差役の中戸負担を実数で比較検討すべきとし、五路百姓の胥吏転雇の弊も指摘、郡県ごとの利害報告が命じられた。
差雇折衷案の模索(元祐後期)
- 元祐四年、右正言劉安世は御史中丞李常の復雇募論(民が輸銭を厭がった実情、上戸の負担軽減と中下戸の負担増加)を批判し、差役固守を主張、知杭州蘇軾も上等戸の負担軽減効果を再確認しつつ、三等戸の負担(雇役時三、四千から差役時七十余千への急増)の不均衡を指摘した。六色銭による中戸代役の仕組みは一定の効果があったが番次制限(三番未満は募人不可)の不合理、投名衙前の不足への対応、休役年数短縮(六年から二年へ)による農民の反発、寛剰銭の他用への疑念など、細部の問題が続出し、六色銭の一路単位での品配・融通による解決が提案された。元祐五年、再び中書舎人王巌叟・樞密都承旨韓川・諫議大夫点検戸曹文字劉安世が詳定を命じられ、戸部は河北河東陝西の鄉差衙前について雇直の半額支給、投名衙前は耆長のみ差すなどの原則を定めた。
- 三省は投募衙前免役の拡大、諸州衙前雇直・餐銭の適正化、州役の鄉差転換基準(一鄉四年未満なら助役銭で募代)、諸州県の差役都鼠尾簿(戸ごとの物力・色役年月・更代人を記載する台帳)の整備を命じ、坊塲河渡銭の寛剰も他役人補助に充てさせた。三省は十一項目の綱目(三等以上は休役四年・四等以下は六年、狭鄉の応差応募の定額化、寛鄉は序按差、官弓手雇用の優先順位、壮丁半年輪番、州路間の助役銭融通、寛剰の五分限度、軍人迓送費の転運司負担、重役人の継続雇用、募役資格の稅産要件、陝西鎮戍の田募制度)を示し、各県が色役輕重・鄉分寛狭・雇直過不足を州・監司・戸部へ順次報告する体制を整えた。元祐八年、耆長壮丁の連続役期を禁じる詔(賄賂の温床防止)、父母の喪に服す者の役免除規定(三等以下戸は免除、三等以上戸は十分の三のみ納付)も定められた。
哲宗親政以降の免役法回帰
- 哲宗親政開始時、三省は役法未整備を報告、帝は「元豊旧法を行い寛剰銭のみ減らせばよい」と述べたが、范純仁は「四方の実情に応じた法でなければ久しく続かない」として戸部に議を命じた。右司諫朱紱は輸銭免役の過重敷課・雇役の過大な立直の是正、優便役の自役化を提案。中書は差役十年の弊(前後で議論が紛糾し定まらない)を指摘し免役法への復帰を詔した。条約は元豊八年の制に依り、鄉差役人は募集があれば随時交替、坊塲河渡・封樁銭で雇直不足を補い、免役銭は同年七月から徴収開始、耆戸長壮丁の雇募が優先され不足時のみ保正保長保丁が代役、寛剰は一分を超えないとした。減額は下五等戸から始めるとされ、路ごとに提挙官一員を置いた。旧法(七月起輸)と新法(翌年起輸)の折衷、法司吏餐銭への抵当息銭充当も許可された。同年七月、幕職監当官の代替雇役への転換、元祐溢額の廂軍削減、出等高強戸の減免(百千超過ごとに三分の一減免)、財産隠匿・戸貫仮借による等第逃れの禁止と告発者への半額褒賞、宗子・皇太后皇后の緦麻親の免役、皇太妃への準用も定められ、戸等簿の更新規定(漫滅の場合は前倒し改造)、元豊条制(保正長が耆長に、甲頭が戸長に、承帖人が壮丁に代わる)の復活も行われた。
- 元祐二年、諸路役人額数の雇直は元豊旧制に準拠、寛剰は常平免役に一本化し提挙官専管とされた。重脩編敕所は都保正・大保長の負担軽減策(承帖人の増員、一年一替の官給雇直等)を詳細に議論し、保正長雇役を望まない土俗地域には募人代役の道も開いた。三年、左正言孫諤は元豊(役人数多いが省力)・元祐(役人数少ないが雇直重い)双方の得失を論じ均衡を求めたが、翰林学士蔡京はこれを「元祐を持ち上げる姦言」と非難、諤は正言を罷免され知広徳軍に左遷された。同年、催税比磨・追甲頭保長の乱用、承帖名目での占破の禁止、州県官による陪備輸物強要の禁止も定められた。同年、常平・免役・農田水利・保甲の諸法を一書「常平免役敕令」にまとめ、翰林学士承旨蔡京が詳定を担当したが、侍御史董敦逸は蔡京の元祐初の行動(司馬光に付き従い祥符県で一千百人を差役した経緯)を指摘し、蔡京は自弁して咎めを免れた。
- 元符二年、元祐期に免役法を是とした蕭世京・張行が抜擢され、河北東西・淮南運司府界提点司の免夫銭催徴が整理され、辺事による差夫は朝廷の許可制とされた。建中靖国元年、戸部は西北路の郷書手・雑職・斗子等の雇直不要な土着募集を提案。知延安府范純粋は衙前の公盗官銭逃亡問題への対応として上等鄉戸の輪差供役を求めたが、殿中侍御史彭汝霖の弾劾で退けられた。知襄州俞栗の綱運不均への対応も臣僚の非難で処分された。崇寧元年、大保長の催税雇直不給問題、湖南江西提挙司の吏胥雇直削減による役人雇銭不給問題が是正され、紹聖の常平免役敕令格式が全国に施行された。
- 崇寧二年、常平息の増収(二分で五年一倍)と免役寛剰の蓄積(一分で十年一年分)による豊富な備蓄を根拠に、集賢殿修撰知鄧州呂仲甫の上条削除要求は却下され知海州に左遷、常平司の豊衍時の蠲免制度も整えられた。大観元年、募吏の資格制限(四等以上戸、州県で五犯杖罪未満)が定められたが、その後上三等戸の弓手投充禁止で浮浪の応募者が盗賊化する弊も生じ、元豊旧法への復帰が命じられた。政和元年、鞏州の役銭累増(元豊四百千から近三万緡へ)が是正され、崇寧に定めた「凖備銭」の擅増を違制論とする厳格化も行われた。宣和元年、官戸の役銭半減による下戸への負担転嫁が是正され、保長の月給雇銭制度、天申節礼物の抑配禁止も定められた。宣和七年、儆察私鋳のための坊正副制度が廃止された。
南宋の役法と義役の広まり
- 紹聖の雇役復活は建炎初に一時罷められたが、その後の討論を経て参政李固は「常平法は漢の耿寿昌に本づくもので王安石ゆえに廃すべきでない」と高宗に説いた。当時招射士に庸直を給する財源がなく、官戸役銭は減半を停止、民戸役銭はいったん二割増ののち再び減額、戸長・保甲への庸銭給付も保甲廃止で途絶え総制窠名に転用された。役は物力の升降と連動するため、紹興以来、推割・推排の制(典売典業の税賦・物力の一括計算、三年ごとの升降査定)が整備され、当初は猪羊等の細物まで査定に含まれる弊があったが後に質庫・房廊等以外の計上が禁じられ、耕牛・租牛も除外された。江東西では田頭計税による推排免除の地域もあった。保正長の五家一保・十大保一都保の制、品官の限田免役規定(一品五十頃・二品四十五頃・三品四十頃・四品三十五頃・五品三十頃・六品二十五頃・七品二十頃・八品十頃・九品五頃)、封贈官子孫(父母存命中は封贈なしの場合を除く)も同様の免役、非泛・七色補官者は限田免役の対象外で奏薦弟姪子孫は差役同編戸とされた。太学生・得解者は募人充役の許可、単丁女戸・孤幼戸は差役免除、無夫無子は女戸、夫の戸を継ぐ、保正長の家業銭超過分は編戸と輪差、募人充役は土着者に限り放停兵・公人経験者は禁止、募人を口実にした正身の再追及も禁じられた。
- 高宗は河朔で閭閻の苦を親見しており、県令が不得人だと一度の充役で破家に至る実情を憂え、乾道五年、処州松陽県で「義役」(衆が田穀を出し合い役戸を助ける仕組み)が始まり十一年に諸路へ広まった。御史謝諤は義役を民意任せとし不願者には差役を認めるべきとしたが、朱熹は義役に四つの未善(倡義者の理想が後継者に受け継がれない、材知者による専横、気力者による差役権の私物化、虐貧擾富・凌寡暴孤の弊、雇役法の下で役戸が安住できない)があると批判した。淳熙五年、臣僚の奏で提挙官による属邑差役の考課制(詞訟の多寡で殿最を決める)が整い、役戸輪管・募人による公私の便を図る仕組みが義役として確立した。慶元二年、吏部尚書許及之は淳熙の陳居仁の奏に基づき祖宗以来の免役旧法と紹興十七年以降の続降旨符を編纂し「役法撮要」として五年かけて完成、左丞相亰鏜が上奏した。その法自体は永続しうるものだが、運用の巧拙は人によるとされた。
振恤(水旱蝗螟饑疫への対応)
- 水旱蝗螟饑疫の災は治世でも避けられぬため、周官の荒政十二条にならい万民を集めて対処するのが古の道である。宋の治は仁厚を旨とし、諸州は歳の凶作に必ず常平・恵民倉の粟を発し、平価で糶い、種食を貸し、あるいは直接振給した(主客戸を問わず)。不足時は使者を発して省倉を開き、他路から漕運し、富民に出銭出粟させて官爵で報い、挙放(貸与)した者には秋の収穫後に官が償還を保証した。それでも足りなければ内蔵・奉宸庫の金帛や祠部度僧牒の鬻売にまで及び、東南では発運司の年漕米数十万~百万石を充てた。租税の未納・未備分は免除・軽減・倚閣し、力役・支移折変も省き、蚕塩・和糴・科率・追呼で農を妨げる仕組みは罷め、関市の税を薄くし、牛の売買や運送の関税も免じ、水郷では蒲魚果蓏の税を蠲した。官を分けて巡撫させ、囚繋を緩め刑罰を省き、飢民の窃盗は罪を薄くし、流亡民には渡し賃を免除、京師に至る者には諸城門で米を給し、官第・寺観を仮の粥場とし、日給糧で帰郷できる者には日数分をまとめて給し、帰る所のない者は閑田を賦するか軍籍に入れるか、少壮を募って工役に興し、老疾幼弱で自存できない者は官が収養した。水災州県には船栰を用意し、被災地には薪糧を給し、饑役や溺死者は官が埋葬・祭祀し、家族に銭粟を賜った。京師の厳寒時には塲を置いて米・薪炭を安く供し、蝗害には撲滅を奨励して蝗子一升を菽粟三升~五升と交換した。詔で州郡長吏の撫恤、監司による老疾罷懦な官吏の監察も行われた。
- 建隆三年、戸部郎中沈義倫は呉越使から戻り揚泗の飢民の窮状を訴え、有司の懸念にもかかわらず太祖は貸与を命じた。乾徳四年、州県に義倉再興を命じ、二税一石ごとに一斗を別収して凶歉に備えた。南征平定の各地にも飢饉時に振恤の詔が発せられた。太宗は農本の教化に努め、恵民倉の蓄えと常平倉の増糴で不足に備えた。真宗はこれを継承し淳化の制を天下に広げ、常平・恵民倉がほぼ全国に及んだ。仁宗・英宗は災異のたびに朝を避け服を変え膳を減じ、慶暦初に義倉再興、嘉祐二年に広恵倉設置を詔した。地方官にも良吏が多く、張詠の蜀治(歳に米六万石を糶い皇祐甲令に著される)、富弼の青州(公私廬舎十余万区に流民を分置し五十余万人を活かし、うち一万余人を募兵とした)、知鄆州劉夔の発廩振飢、知越州趙抃の榜文による米価抑制策などが伝えられた。
- 神宗即位後、河北の水旱に対し熙寧二年、判北京韓琦への詔で撫恤を命じたが、王安石の改革で貸糧法が助役・青苗に変わり出息を伴うようになり、天下広恵倉田も売却され、先朝の良法は失われた。哲宗は広恵倉を一時復したが章惇政権下で再び罷められ田も売却、常平・義倉の不足は路を跨いだ融通で補われた。紹聖・大観の間には空名の告勅・補牒まで賜与に用いられ、民は困窮し宋の国勢は衰えた。
- 仁宗代には医薬にも及び、慶暦善救方の頒布、知雲安軍王端の献策による官給薬、京師大疫時の犀角下賜(内侍李舜挙の私用願いを帝が退け、砕いて薬とした逸話)、太医の派遣、僦舎銭十日分の免除などが行われた。天禧中、京畿近郊の寺で無主の死者を瘞める制度(一棺六百銭、幼者半額)が設けられたが嘉祐末に打ち切られ、以後死者は道に暴露された。京師には東西福田院が置かれ廩給対象は二十四人にとどまっていたが、英宗代に南北福田院が増設され各院日三百人を廩し、歳出内蔵銭五百万(後に泗州施利銭で八百万に増)を給した。詔で大雨雪時の僦舎銭三日免除(年九日限度)も恒例化した。熙寧二年、雪寒時に四福田院で額外給付、熙寧九年、知太原韓絳の建言で河東の給付期間延長(十月から翌二月まで)が認められた。鰥寡孤独癃老疾廃貧乏で自存できない者は戸絶屋を住居とし戸絶財産を費用に充て、不足時は常平息銭で補った。
- 崇寧初、蔡京は居養院・安済坊を置き常平米を数倍厚給したが、州県が過剰実施し帷帳・乳母等まで用意する弊も生じ、貧者を喜ばせる一方で富者を苦しめる歛取となった。崇寧三年、漏澤園を設けて棺柩を葬った(神宗代に開封府界寺院の旅寄棺柩を官地に埋葬させた前例を拡張、三千人以上葬った僧には紫衣を、続けて三年務めれば師号を与えた)。安済坊でも千人治癒の僧に紫衣・祠部牒を与え、医者には手歴で治療記録を付けさせ考課の材料とした。城砦鎮市で戸千以上の地には居養院・安済坊・漏澤園を増設、道路の凍死者・無衣の乞丐者への救済、貧家の学齢児童の小学入学(衣襴は常平頭子銭から支給)、遺棄小児の乳養や寺観での童行としての養育も定められた。宣和二年、居養・安済・漏澤の給付基準が元豊法に照らして中制に定められた(居養は日税米一升・銭十文省、十一月から正月は柴炭五文省加給、小児半額。安済坊も同基準、漏澤園は埋葬のみで斎醮等は廃止)。
- 高宗南渡後も帰順民への衣食・医薬・瘞埋(居養院・安済坊・漏澤園を「常」の制とした)が続けられ、紹興以来、水旱のたびに常平義倉から振済・振糶・振貸を行い、財源不足の折には出粟濟糶者への官爵授与も行われた(紹興元年の詔で糶三千石以上は守闕進義校尉、一万五千石以上は進義校尉、二万石以上は取旨優賞、既に官蔭がある場合は比類施行)。紹興六年、湖広江西の旱に上供米を撥して振済、婺州の遏糴・閉糶問題では殿中侍御史周祕の建議で守令の勧諭が優先された。同年、潼川守臣景興宗・広安軍守臣李瞻・果州守臣王隲・漢州守臣王梅が飢民を活かして昇進・転官、前吏部郎中馮檝の私財による振給も表彰された。紹興十年、通判婺州陳正同の振済法は諸路に広められた。紹興二十八年、浙東西の水損への振済基準が水旱七分から五分に緩和され、二十九年には諸処守臣の常平義倉米二分振糶、臨安府の樁積米放出も命じられた。紹興三十一年正月、雪寒の民困窮に対し臨安府・属県の常平米半価振糶(十日間)、城内外貧乏の家への銭二百・米一斗・柴炭銭の給付が内蔵から支出された(寒暑・雨・火・赦・祈祷・即位・生辰・上尊号・立太子・晏駕・大祥時の恒例給付も付記)。輔郡の民にも常平銭で臨安府に準じた振済が行われた。
- 孝宗隆興二年、秋の霖雨害稼に対し内帑銀四十万両で変糴して民を済った。乾道六年、浙西の水災被民への振済、七年八月、湖南江西の旱に賞格を立てて積粟を勧めた(無官人千五百石で補進義校尉、二千石で進武校尉、進士は免文解一次、四千石で承信郎、五千石で承節郎、文臣は千石で磨勘二年減、二千石で三年減・循一資、進士は上州文学補任、選人も同様の段階制、五千石以上は取旨優賞)。九月、臣僚は旱傷対応の責任分担(検放展閣は運司、糴給貸借は常平、覚察妄濫は提刑、体量措置は安撫)を提案し、虞允文は転運司の省計としての通融責任を論じた。淳熙八年、江浙湖北淮西の旱傷地への振糴と、鰥寡孤独貧民への義米振済。寧宗慶元元年、両浙転運副使沈詵の建言で米価高騰時の商販囤積を禁じた。嘉定十六年、楚州備蓄米二万石を山東西へ振済。
- 淳熙八年、浙東提挙朱熹は乾道四年の飢饉に際し常平米六百石を借りて社倉を創設し、夏に貸し冬に息を加えて償還させ、豊年には息を減じ大飢には全免するという運用を十四年続け、元の六百石を返還してなお三千百石を蓄え、耗米三升のみを徴する仕組みに改めた結果、一郷四、五十里で凶年にも飢えなかった。陸九淵はこれを称賛し「社倉は何年も有司が行わなかった良法」と評し「振恤」に編入すべきと述べた(借貸の甲・保の組織――十家一甲・五十家一社首、正月の告示と結甲、逃軍等の除外、貸与量の口数按分、社首の審査、耕作時期に応じた貸与・八月末までの返還の詳細な運用規則も付記)。嘉定末、真徳秀は長沙でこれを実施し凶年に効果を上げたが、長年の運用で移用・拘催の弊も生じ良法美意が損なわれた。宝慶三年、監察御史汪綱は豊凶地域間の融通による遏糴禁止の徹底(両浙江東西湖南北の米流通許可、違反者の処罰)を求め容れられた。端平元年六月、建陽・邵武の群盗鎮圧に際し、兵威一辺倒でなく振救の政も併せて行うべきとの臣僚の献言があり、八月には河南新復地に江淮制置大使司から米麦百万石が振済された。淳熙十一年、福建諸郡の旱に錫米二十五万石、うち一万石を貧民に振糴。
- 景定元年、臨安府平糴倉の米数十万石が糶補循環せず不足していたため、臨安府が米四十万石を収糴、平糴倉銭三百四万七千八百五十九貫・封樁庫十七界会子千九十五万二千百余貫、計一千四百万貫を糴本とした。景定二年、浙西米誘引のための入京販糶賞格が乾道七年より優遇された。咸淳元年、豊儲倉の公田米五十万石が平糴倉に付され米価高騰時の平価出糶に充てられた。咸淳二年、監察御史趙順孫は市中で紙幣ばかりが流通し米が見えない実情(富家大姓の閉廩)を指摘し、乾道間に米価高騰の守を孝宗が罷めた故事を引いて、官吏の督励と富民への勧告を求めた。咸淳七年、咸淳三年以前の諸路義米百十二万九千余石が減価発糶され、関会(紙幣)不足の民でも現銭で購えるよう措置された。