皇后の車
- 唐制には皇后の車が六等あった。重翟車・厭翟車・翟車・安車・四望車・金根車である。宋はこれを受け継ぎ、当初は厭翟車を用いた。箱型で四隅に曲欄をめぐらし、紗窓・金鳳の飾りを付け、香炉・香匣・緋色の繡幰衣・絡帯・門簾を備え、三本の轅に鳳首の飾りを付けた。棕櫚葺きの屋根に鳳凰を飾った金塗銀装の白藤輿を正副各一台備え、官の服制はこれに準じた。
- 徽宗の政和3年(1113年)、議礼局が皇后車輿の制を改めて上奏した。重翟車は青地に金飾りを施し、五采の輪と金根朱牙の車箱に重翟の羽根・雲鳳孔雀・亀文を刻み、頂に金の立鳳を飾る。青羅の幰衣・紫羅の雲龍絡帯・青糸絡網・紫羅の帷・青羅の夾幔を備え、車内には紅の褥と座を設け、轅の上に立鳳八体、香匣に香炉・香宝を置く。轅は三本で鳳頭の飾りを付け、青馬六頭で牽く。册立を受ける際や景霊宮参拝の折に用いた。
- 厭翟車は赤地で次翟の羽根を飾り、紫の幰衣・紅糸絡網・紅羅の絡帯夾幔錦帷を備え、他は重翟車に準じ、赤騮四頭で牽く。親蚕(皇后自ら蚕を飼う儀)の際に用いた。
- 翟車は黄地で車の側面に翟羽を飾り、黄の幰衣・黄糸絡網・錦帷絡帯を備え、黄騮四頭で牽く。
- 安車は赤地に金飾り、五采を交え亀文を刻み、紫の幰衣・錦帷絡帯・紅糸絡網を備え、前後に簾を垂らし、車内に褥と座を設け、赤騮四頭で牽く。馬具の飾りはいずれも車の質に応じた。
- 四望車は朱地に青の幰衣で、他は安車に同じく、牛三頭で牽く。金根車も朱地に紫の幰衣で、他は安車に同じく、牛三頭で牽く。
- 重翟車以下は鹵簿(儀仗行列)の際に順に並べ、藤輿(金塗銀装、棕櫚葺きの屋根に龍を飾る)は日常の行幸に用いた。
龍肩輿(龍檐子)
- 龍肩輿は棕檐子・龍檐子とも呼ばれ、二本の竿で担ぐことから檐子という。南渡(南遷)後に作られたもの。北宋の東都では皇后は厭翟車を備え、常時は白藤輿に乗った。南渡後は太后が龍輿を用い、皇后は檐子のみを用いることで太后を尊ぶ意を示した。方形で棕櫚葺きの頂に走脊龍4体・走脊雲子6個を配し、朱漆に紅黄の藤で百花龍を織り出した障(囲い)、緋色の門簾・看窓簾、朱漆の藤座椅子と踏子、紅羅の褥と軟屏・夾幔を備える。
- 隆興2年(1164年)正月、皇后の冊立の儀が終わり朝謁の日を選ぶにあたり、有司が儀物を整え肩輿に乗ることを願い出た。龍檐製造所は使臣尹肇を通じて中宮に、次の器物一式を納めた。金塗銀葉・棕櫚・朱漆・紅黄藤織百花龍の枰子、碌牙壓貼・鏤金雕木腰花泥版の龍檐子1乗、金塗銀の頂子、龍頭6・走脊龍4・走脊雲子6、貼絡龍40・貼絡雲子30、鐸子8、挿拴坐龍4、環索金鈸遮那1副、檀香亀背の紅紗窓4扇、紅羅縁紅篸の門簾1・瀝水一式、看窓簾2、朱漆藤面明金雕木龍頭の椅1・脚踏1・紅線絛結1、朱漆小几2、紅羅褥一式・紅羅縁肩膊席褥16・繋帯一式、金塗銀鉄胎杆鞫4・魚鈎4、火踏1、朱漆梯盤一式、朱漆衣匣2、金塗銅手把葉段拓叉2、金塗銅义頭拖泥行馬2、金塗銀葉杠子2、紅茸匾絛4、紅羅夾軟屏風・夾幔各1、襯脚席褥・靠背坐褥・踏床各1、紅帽十字帕1・竿袋4・魚鈎帕2、紅油十字帕・竿袋・魚鈎帕は数同上、兠地帕1、囲裙1。
大安輦
- 真宗の咸平年間(998〜1003年)、万安太后のために輿を製し、上に行龍6体を設けた。乾興元年(1022年)、皇太后の坐す檐子を大安輦と名付ける詔が出た。
- 神宗の即位後、皇太后を尊んで太皇太后とし、その行幸は治平元年(1064年)の制に依った。皇太后・皇后は常の外出には副の金塗銀装白藤輿(棕櫚葺きの屋根、鳳輦の飾り)を用い、官の服制は乗輿平頭輦の制に準じた。そこで太皇太后の出入りに用いる輿は万安太后の輿と同様に行龍6体を設け、飾りはさらに加えることとし、金銅車は礼典に載らないため旧制のままとした。
- 哲宗の紹聖元年(1094年)、皇太后の大安車を新造する議が起こり、中書省が治平・元豊年間の皇太后輿服儀衛の記録を提出して言うには、元豊年間に先帝(神宗)が手詔で皇太后の行幸儀衛はすべて慈聖光献太皇太后(曹太后)の例に依ると定めたが、宣仁太后(高太后)は謙恭で大安輦に乗らなかった。哲宗は「今の皇太后(朱氏)は独尊であり宣仁太后とは比べられない」として大安輦を進めるよう詔したが、皇太后が辞退し、結局製造されなかった。
龍輿
- 龍輿は皇太后の乗り物である。北宋の東都では皇太后の多くは垂簾聴政をしつつ抑制して人目を憚り、輦には乗らず輿のみを用いた。
- 哲宗即位後、朱貴妃を皇太妃に尊び、出入りに檐子を許した。有司は牙魚鳳の飾りと青の繖を用いることを請うたが、元祐3年(1088年)、太皇太后(宣仁)が有司に典故を調べさせ、檐子は龍鳳の飾り、繖は紅とした。元祐9年、群臣が檐子を輿に改め行龍5体を設け、出入りは宣徳門の東偏門を用いることを議した。哲宗は皇太后の諭旨により皇太妃を六龍輿に坐らせ、出入りには黄繖を用い宣徳正門を通ることとした。三省はこれを議し、皇太妃は龍鳳輿に紅黄の繖を兼用し、皇太后の出入りには紅のみを用いることとした。
- 紹聖元年(1094年)、礼部・太常寺は「先に旨を奉じ、皇太后が皇太妃を六龍輿に坐らせようとされたが、皇太妃を尊奉する礼は皇太后に隆んずるわけにはいかず、また中宮に及ばないわけにもいかない。人情を参酌し詳定した上、龍鳳輿を供進されたい」と上言し、これに従った。
- 徽宗即位後、太妃を尊んで聖瑞皇太妃とし、儀物は六龍輿を用いず龍鳳輿を進める他はすべて格を高めるよう詔した。
- 紹興年間、皇太后(韋太后)を迎えるにあたり龍輿の新造を詔した。その制は朱地の正方形で、金塗銀飾りの竿4本、竿頭に螭首、赭色の窓、紅の簾、上は棕櫚葺きで走六龍を加え、内に黄花羅の帳・褥、朱漆の椅・踏子、紅羅の繡巾2枚を設けた。
皇太子・皇太子妃の車
- 皇太子の車輅は唐制に三等あった。金輅・軺車・四望車である。太宗の至道初年(995年頃)、真宗が皇太子として太廟に謁するのに金輅に乗り、常朝には馬に乗った。真宗の天禧年間(1017〜1021年)、仁宗が皇太子であった時も同じ制であった。
- 徽宗の政和3年(1113年)、議礼局は皇太子車輅の制を上奏した。金輅は赤地に金飾り、重較の箱に苣文鳥獣を描き、黄屋伏鹿の軾、龍輈に金鳳1体を軾の前に置き、朱蓋黄裏の障塵を設け、輪には朱牙を描いた。左に9旒の旂、右に闟戟を載せ、旗首は金の龍頭で結綬・鈴綏を銜え、衡に八鸞、軾に二鈴を配し、赤騮4頭に金鑁方釳・翟尾・鏤錫・鞶纓九就を施して牽いた。従祀・太廟参拝・納妃の際に供した。軺車は金飾りで紫油通幰、紫油纁朱裏、馬1頭で牽く。四望車は金飾りで清油通幰、清油纁朱裏、朱糸絡網、馬1頭で牽く。軺車・四望車は鹵簿の仗内に順に列した。
- 皇太子妃には厭翟車があり馬3頭で牽き、出入りには檐子にも乗った。南渡後は簡素倹約により藤檐子のみを用い、頂梁・舁杠はすべて黒漆で四隅に獣形を彫り、素藤で花を織った面とする、政和年間の制に準じたものであった。
親王・群臣の車制
- 唐制では親王・群臣の車輅に四等あった。象輅(親王・一品)、革輅(二品・三品)、木輅(四品)、軺車(五品)である。宋では親王・一品・二品の奉使及び葬儀に革輅を給し、制は乗輿の副車に同じだが龍飾りを螭に改めた。六引(儀仗の先導官6名)のうち三品以上は革車(赤地、進賢車に似た形で案なし)に乗り、赤馬4頭・駕士25人を配し、緋色の幰衣・絡帯・旗戟・綢杠に繡文を施した。司徒は瑞馬、開封の京牧は隼、御史大夫は獬豸、兵部尚書は虎、太常卿は鳳の文様を用い、駕士の衣も同じ意匠とした。県令は軺車(両壁に紗窓、轅1本、金銅飾り、紫幰衣絡帯に雉と瑞草を繡う)に乗り、馬2頭・駕士18人を配した。百官の常朝はみな馬に乗った。
- 真宗の大中祥符3年(1010年)、知枢密院事の王欽若が「王公の車輅の上にはみな龍の装飾を用いている、有司に制度を検定させたい」と言い、太常礼院に詳定させた。礼院は鹵簿令に基づき、王公以下は象輅(象牙飾り、朱班輪、八鸞、左に昇り龍と降り龍を画いた旂、右に闟戟)、革輅(革飾り、左に旃、他は象輅に同じ)、木輅(漆塗り、他は革輅に同じ)とし、軺車は曲壁青幰碧裏の朱輅で、いずれも朱地・朱蓋・朱旂とし、旃の旒数は一品9旒・二品8旒・三品7旒・四品6旒、鞶纓も同様とすることを上言した。
- 神宗の元豊3年(1080年)、詳定礼文所は「鹵簿記では公卿の奉引の第一は開封令の軺車、次いで開封牧(隼旗)、太常卿(鳳旗)、司徒(瑞馬旗)、御史大夫(獬豸旗)、兵部尚書(虎旗)の順に革車に乗るとあるが、これは誤りである」と指摘した。周礼の巾車職に「孤は夏篆に乗り、卿は夏縵に乗り、大夫は墨車に乗る」、司常職に「孤卿は旃を建て、大夫は物を建てる」とあることを根拠に、奉引は開封令が先頭で墨車に乗り物の旗を建て、次いで開封牧も墨車で旗を建て、太常卿・御史大夫・兵部尚書は夏縵に乗り、司徒は夏篆に乗っていずれも旃を建てるべきと上言し、九旗の制に備えるものとして詔許された。
- 政和年間、議礼局は王公以下の車制をさらに定めた。象輅(象牙飾り、朱班輪、八鸞、左に旗、右に闟戟、馬4頭)は親王の婚儀に用いる。革車(赤地、闟戟、緋羅繡の輪衣・簾・旗・韜杠・絡帯、赤馬4頭)は、大駕鹵簿では六引、法駕鹵簿では三引とし、開封牧が第一に乗る。王公・一品・二品・三品はいずれも鹵簿に革車1乗を供え、輪衣・簾・旗・韜杠・絡帯に繡文を施した(開封牧は隼、大司楽は鳳、少傅は瑞馬、御史大夫は獬豸、兵部尚書は虎)。軺車(黒地、紫幰衣絡帯に雉を繡い、紅錦の簾、香炉香宝、結帯、赤馬2頭)は鹵簿第一引の県令が乗り、駕馬にはいずれも銅の面繋ぎ・挿羽・鞶纓・攀胸・鈴拂・緋絹の屜・紅錦の包尾を施した。
- 政和6年(1116年)、礼制局は「大観年間に大司楽が太常卿に代わって第三引となったのは大司楽が鼓吹を掌るためだが、礼楽の官は宗伯を長とするので礼部尚書に改めるべきである。また第四引の司徒は地官の長として漢以来三公とされてきたが、朝廷は近年司徒を少傅に改めたので、六引の司徒は地官の職として戸部尚書に改めるべきであり、その府佐は六引の諸卿の例に倣い僚佐に改め、鹵簿儀仗は兵部尚書の例に倣って給するべきである」と上言した。あわせて、古の諸侯の出封と現在の開封牧・卿の位置づけの異同について周礼を引いた長い議論が交わされ、詔してこれに従った。
- 同年、詳定官の蔡攸はさらに、六引の序列(開封令の軺車を先頭に、開封牧・大司楽・司徒・御史大夫・兵部尚書の革車が続き、それぞれ隼・鳳・瑞馬・獬豸・虎の旗を建て闟戟を副える)は、乗る車・建てる旗ともに古制と食い違うと論じた。大駕の三引は後漢光武帝の代に始まり河南尹→執金吾→洛陽令の順(尊→卑)、北魏の三引は平城令→司隷校尉→丞相の順(卑→尊)であったこと、唐は六引を併用し、五代は三引に減じ、後周で六引に戻し、本朝はこれを受け継ぎ開封令を先頭・兵部尚書を末としていることなど先例を挙げ、司徒は戸部尚書に、大司楽は礼部尚書に改め、その序列は兵部・開封令牧・礼部・戸部の後に御史大夫を置くべきと論じ、夏篆・夏縵・墨車の使い分け(孤は夏篆、卿は夏縵、開封令は大夫に准じ墨車)、旃・物・旗の建て方(開封令は物、開封牧は旗、尚書・御史大夫は旃)を細かく定め、詔してこれに従った。
- 政和7年(1117年)、礼制局は「六引の駕士の衣服は旧制のままだが、天子の五輅の駕士の服がそれぞれ輅の色に随うのと同様、六引の駕士の服も改めるべきである」と上言し、墨車の駕士は皂(黒)、夏縵の駕士は皂地に五色の団花とすることが定められた。
肩輿・轎
- 神宗は老疾で騎乗できない宗室を優遇し、出入りに肩輿を許した。熙寧5年(1072年)、大宗正司は「病により肩輿に乗る宗室は、踏引の籠燭を2対を超えてはならない」と請うた。
- 南渡後、臣下が車に乗る制度はなくなり、従祀には馬、常朝には轎(駕籠)を用いた。旧制では輿・檐は禁じられていたが、南渡後は東征西伐で道が険しいことから百官の轎乗を許す詔が出され、王公以下がこれを通用した。その制は正方形で黄・黒の2等の飾りがあり、凸型の蓋に梁はなく蔑(竹皮)の席を障とし、左右に牖(窓)、前に簾を設け、長竿2本で担いだ。竹轎子または竹輿と呼ばれた。
内外命婦の車
- 唐制では内外命婦の車に厭翟車・翟車・安車・白銅飾りの犢車があり、幰網の格に差があった。宋制では銀装白藤輿檐は内命婦・皇親が乗り、白藤輿檐・金銅犢車・漆犢車(氊または棕櫚で覆う)は内外命婦が通じて用いた。
繖(傘蓋)
- 繖は臣下が通用する儀仗で、青絹で作った。宋初、京城内では親王のみが用いることを許されたが、太宗の太平興国年間(976〜984年)、宰相・枢密使が初めて用いるようになり、その後は近臣・内命婦の外出にも用いられた。
- 真宗の大中祥符5年(1012年)、宗室を除き他は一切禁じる詔が出たが、翌年には中書・枢密院での使用が再び許された。京城外では庶官が通じて用いた。神宗の熙寧年間の制では、品官でない者は青蓋の使用を禁じ、京城では執政官及び宗室のみに許した。哲宗の紹聖3年(1096年)、在京官は涼扇を用いてはならないと詔した。
- 徽宗の政和3年(1113年)、燕王・越王の二王の出入りに百官が道を避けないことから、三接青羅繖1・紫羅大掌扇2・塗金花の鞍韉・茶燎などをすべて塗金で賜り、これが故事となった。政和8年(1118年)、民庶が神を祀るのに紅黄の繖扇や彩色画を用いてはならないと詔した。宣和初年(1119年頃)、諸路で天神を祀るのに紅黄繖扇を用いることは許すが、他の祠廟ではこれを禁じ、壁画・塑像の儀仗に龍の飾りを用いているものは改めるよう詔した。
- 建炎年間、初めて杭州に駐蹕した際、執政の張澄が「群臣が戦時に扈従するので、張蓋(傘を張ること)を一時免じ、還都を待って旧に復すべき」と言い、詔して前宰相が闕に到れば張蓋を許すこととした。
鞍勒(馬具)の等級
- 鞍勒の制は宋が群臣に賜るもので、賜与によらぬ場合も定めた令式があり、これを踰えてはならなかった。
- 金塗銀の閙装牡丹花・校具80両、紫羅繡宝相花雉子方韀、油画鞍、白銀の銜鐙 — 宰相・親王・枢密使・使相を帯びる者・宰相経験者・観文殿大学士・宮観使・殿前馬軍歩軍都指揮使に賜る。
- 金塗銀の閙装太平花・校具70両、紫羅繡瑞草方韀、油画鞍、陥銀の銜鐙 — 使相・枢密副使・参知政事・宣徽使・節度使・宮観使・殿前馬軍歩軍副都指揮使・都虞候に賜る(四箱都指揮使の韀は紫羅剜花とする)。
- 出使の際は紅犛牛纓・金塗銀鈸を加え、使相が外任の際は紅織成の鞍複を加えた(歩軍都虞侯以上で帯甲馬を賜る者は紅皮の鞦轡・校具70両・青氈円韀・陥銀の銜鐙を加える)。
- 金塗銀の閙装麻葉・校具50両、紫羅剜花方韀、油画鞍、陥銀の銜鐙 — 三司使・観文殿学士・資政殿大学士・翰林学士承旨・翰林学士・資政殿端明殿学士・翰林侍読侍講・龍図天章宝文閣樞密直学士・御史中丞・両使留後・観察防禦使・軍廂都指揮使に賜る(軍廂都指揮使が団練使・刺史に初めて任じられた者への賜与も同様。中書枢密院を経て学士・中丞となった者は校具70両で韀は繡瑞草とする)。現任の中書枢密院・宣徽使・使相・節度使で出使する者、および中書枢密院経験者で諸路都総管・安撫使に充てられ朝辞する日にも同様に賜る。
- 金塗鋃の三環宝相花・校具25両、紫羅円韀、烏漆鞍、銜鐙 — 団練使・刺史に賜る。
- 金塗銀の促結洛州花・校具30両、紫羅円韀 — 諸路承受に賜る。白成15両 — 諸王宮僚・翰林侍読侍書に賜る。
- 金塗銀の宝相花・校具40両、蛮雲校具15両 — 諸班押班・殿前指揮使以上に賜る。白成の窪面校具12両 — 諸班に賜る。いずれも藍黄絁の円韀とする。
- 皇親の婚嫁にはみな藍黄羅繡方韀・金塗銀花鞍を給し、金塗銀の校具は80両から12両まで6等がある。宗室の女婿・繫親にはみな紫羅繡瑞草方韀を賜り、校具は70両から50両まで2等がある。
- 契丹の使者に賜るものは、金塗銀太平花校具70両・紫羅繡宝相花雉子方韀(副使には槲葉校具50両・紫羅繡合子地円韀)で、いずれも油画鞍とする(射弓を行う際は正使は銀装、副使は銀稜とする)。諸蕃の進奉大使に賜るものは刺史と同様で青絛韀を用い、副使は宮僚と同様とする。
- 太宗の太平興国7年(982年)、翰林学士承旨の李昉は詔を受けて車服制度を詳定し、「升朝官は銀装絛子の鞍勒を許すが、六品以下は閙装を用いてはならず、韈にも刺繡や金皮の飾りを施してはならない。他の官及び工商庶人は烏漆素鞍のみを許し、狨毛の暖坐は用いてはならない。藍黄の絛子は宮禁以外は用いてはならず、士庶・軍校で白皮の韈勒を用いる者は一切禁断する」と請い、これに従った。太平興国8年(983年)、京朝官で録事参軍・知県を務める者の乗馬に纓の飾りを禁じる詔が出たが、後に纓を帯びることが再び許された。
- 端拱2年(989年)、内職・諸班押班・禁軍指揮使・廂軍都虞候に銀装絛子の鞍勒を許す詔が出た。京官で知州・通判となった者は六品朝官に準じることを許された。真宗の咸平2年(999年)、西京留台が「留府の群官・使臣の乗馬に纓を帯びさせない」と上言し、これに従った。大中祥符5年(1012年)、宗室及び恩賜を除き繡韉及び閙装校具を一切禁じる詔が出た。天禧元年(1017年)、両省諌舎・宗室将軍以上に狨毛の暖坐を許し、他は一切禁じた。京官三班以上で外任の者はみな纓の飾りを許された。
- 仁宗の景祐3年(1036年)、五品以上でなければ閙装銀鞍を用いてはならないと詔した。金塗銀装絛子促結の鞍轡を用いることは、文武升朝官及び内職・禁軍指揮使・諸班押班・廂軍都虞候・防団副使以上に許され、藍黄を絛に、白皮を韉轡に用いてはならないとされた。民庶は氈皮絁紬を韉に用いることのみ許され、京官で通判以上の職任にある者は升朝の例に準じることを暫定的に許された。
- 神宗の熙寧年間、文武升朝官・禁軍都指揮使以上は塗金銀装盤絛促結を、五品以上は銀鞍閙装や開花繡韉を再び許されたが、これらは恩賜による者に限り、他の官及び民庶にはなお銀飾りを禁じた。
- 旧制では諸王は宰相に準じ繡鞍韉を用いていたが、政和3年(1113年)に初めて金花鞍韉を賜り、諸王には狨坐を施さなかった。宣和末年(1125年頃)に初めて賜与され、南渡後もこれを踏襲した。
- 乾道9年(1173年)、儀制を重修し、権侍郎・大中大夫以上及び学士・待制で恩賜を経た者は狨坐を許され、三衙・節度使・執政官経験者も同様とされた。これに先立ち建炎初年、杭州に駐蹕した際、扈従の臣僚で狨坐を設けるべき者は一時撤去する詔があったが、旧例では宰執・侍従は8月朔から狨坐を搭載していた。紹興元年(1131年)、江浙の地が暖かいことから9月朔に改め、これが定例となった。乾道元年(1165年)、三衙の乗馬に狨坐を賜る詔が出た。
門戟
- 門戟は木で作られ刃はない。門に架を設けて並べるものを棨戟という。天子の宮殿の門は左右各12、天の数に応じたもので、宗廟の門も同様である。国学の文宣王廟・武成王廟にも賜られたが、武成王廟のみ左右各8であった。臣下は諸州の公門に設け、私門は府第で恩賜を受けた者に許された。
- 太宗の淳化2年(991年)、諸道州府軍監が鼓角・戟矟を令文どおりに賜るよう願い出て、三司の指揮に下すよう詔した。
- 仁宗の天聖4年(1026年)、太常礼院は、広安軍知事の范宗古が矟の下賜を検討するよう奏上したことを承け、「令文を検すると、京兆・河南・太原府・大都督府・都護の門は14戟、中都督・上都護の門は12戟、下都督・諸州の門は各10戟をいずれも官給とし、軍監の門については記載がない」として、范宗古の願いを実施しないよう伏して請うた。
- 神宗の元豊年間の制では、門に戟を列するのは、官司では開封・河南・応天・大名・大都督府がいずれも14、中都督は12、下都督は10とし、恩賜による品官は正一品16、二品以上14とした。南渡後もこの旧制を踏襲した。
旌節
- 旌節は唐の天宝年間に節度使を置いてから、受命の日に賜るようになった制度で、これを得れば軍事を専制でき、出行の際は節府を建て六纛を樹てた。宋では節度使に任命するごとに、有司が門旗2(龍・虎各1)・旌1・節1・麾槍2・豹尾2旗を給した。
- 旗は紅繒9幅で、上に耀箆・鉄鑽・髹杠の緋纛を設けた。旌は塗金銅の螭頭・髹杠に紅繒を綢い白虎を画き、頂に髹木盤を設け周りを塗金で飾った。節も髹杠に金塗銅葉の飾りを施し、上に髹の円盤3層を紅緑装釘の旄とし、紫綾の複嚢で綢い、さらに碧油絹の袋を加えた。麾槍は髹木盤を設け紫繒の複嚢で綢い、さらに碧油絹の袋を加えた。豹尾は赤黄布に豹文を画き、いずれも髹杠とした。
- 神宗の熙寧5年(1072年)、新たに建節・移鎮する際はいずれも勅を降し、太常寺が旌節を排比し、左右金吾街仗司・騏驥院が執擎の人員・鞍馬を給する制を詔した。南渡後もこれを踏襲した。
- 建炎3年(1129年)、韓世忠の旗を表して「忠勇」と名付け、紹興3年(1133年)、岳飛の旗を表して「精忠」と名付けた。孝宗は自らの藩邸旌節を天章閣に迎え置くことを詔し、淳熙年間、光宗もまた東宮旌節を奉ずることを詔した。その後、寧宗が即位すると、有司は「皇帝藩邸旌節を安んじ奉るには推飾を施すべきである」と言い、朱漆青地金字の牌2枚を用い、一枚には「太上皇帝藩邸旌節」、もう一枚には「今上皇帝藩邸旌節」と題した。これは元豊年間の延安の故事を襲用したものである。