宋史卷一百四十九 輿服志第一百二 輿服一

序説

  • 昔、聖人が輿を作るにあたり、車箱を方形にして地を象り、蓋を円形にして天を象ったという。『易伝』には黄帝・堯・舜が衣裳を垂れて天下を治めたのは乾坤に取ったものだとある。輿服の制が天地に法るのは、聖人が物を創る智恵として尊卑を分かち上下を定める上で最も大きなものである。舜は禹に「古人の象、日月星辰・山龍・華蟲を観て絵とし、宗彛・藻火・粉米・黼黻を刺繍し、五采を五色に施して服を作れ」と命じた。周官には巾車・典輅・司常・司服・司裘・内司服などの職があり、これにより輿服は黄帝に始まり唐虞に成り、夏・商を経て周に大いに備わったことがわかる。周が衰えて列国が奢侈を恣にし、秦がこれを併合すると上等は選りすぐって服御に供し、その次を百官に賜り、初めて大駕・法駕の制ができた。天子から牧守に至るまでそれぞれ鹵簿が定められた。漢が興ってからは古の成憲に鑑みることができず秦の制を模倣し、以後代々変更を重ね、志の記述にも詳略があった。東漢から旧唐書までいずれも「輿服」と称し、新唐書は「車服」に改め、鄭樵は諸代を合わせて『通志』を編み「器服」とした。文言は異なるが古の制作を考究する上で三代に勝るものはない。
  • 三代の制器が百世の法となったのは、その華と質が適中していたからである。孔子が顔淵の「邦を為むる」問いに答えて「殷の輅に乗り周の冕を服せよ」と言い、また礼には「周人は輿を上とす」とあるのに孔子はひとり殷の輅を取ったのは、殷の輅の質が周に勝るからである。また「禹は黼冕に美を致した」と言い冕については周を貴ぶとしたのは、周の文が夏に勝るからである。これはすでに二代の間で損益がなかったわけではない。秦以降、歴代がどれほど損益を加えたかは知られない。宋の君臣は二帝三王・周公孔子の道をよく講じたが、規模・制度は名声を飾るに十分なほど整い、古制にすべて合致してはいないものの後代に対して恥じるところは少ない。
  • 宋初の袞冕は珠玉を用いず簡儉の風を存したが、鹵簿になると旗幟を熾んに用い繍衣で華やかにし毬杖で褻れ、唐・五代の習いを踏襲して陋を去りきれなかったのではないか。これが子孫に伝わりいっそう甚だしくなり、徽宗に至って奉身の欲は奢りに流れ極まり、亡びずにいられようか。靖康の末、累朝の法物は金に沈没し、中興後は散逸したものを拾い集め時宜を斟酌し省約に努めた。服用の錦繍はいずれも纈に、羅の旗仗で金銀を飾ったものはいずれも繒に、髹漆に易えた。建炎初年、郊祀の事があり仗内の払扇に珠飾を用いるべきところ、高宗は「天に事えるには質を貴ぶべきで、華麗を尚ぶのは禋祀の本意ではない」と言った。これにより子孫は代々その教えを守り、江南の一隅にありながらも華と質の適時を保ち、なお一代の法とするに足るものがあった。その儒臣による名物度数の学にも見るべき論議がある。今、旧史の記載を取ってこれを篇にまとめ「輿服志」を作る。

五輅

  • 宋は神宗以降、鋭意して古を稽え礼文の事に儒士を招いて異同を折衷した。元豊には詳定礼文所が、徽宗の大観年間には議礼局が、政和にはさらに礼制局が置かれた。先んじて元豊年間に局を置いて輅を造らせたが、五輅及び副輅は多く唐の旧制を踏襲していた。玉輅は唐の顕慶年間から伝わるもので、宋では「顕慶輅」と呼ばれ、親郊の際にこれに乗った。制作は精巧で行き来も安定しており、後に太常を載せ闟戟と左右に分けて軽重を均衡させ、当代の良工でもこれを再現できなかった。
  • その制は、箱の上に平盤を置き、黄屋・四柱はいずれも油画・刻鏤で飾り、左に青龍、右に白虎、亀文・金鳳翅・雑花・龍鳳を金塗銀装で施し玉を間に飾り、頂の輪は3層でそれぞれ銀の耀葉を施し、輪衣・小帯・絡帯はいずれも青羅に雲龍を繍い䋿帯・羅文佩・銀穗毬・小鈴を周りに綴る。平盤の上には黄褥を敷き四角に勾欄を設け円鑑・翟羽の虚匱を置き、内側には銀鏤の香罨を貼り、軾匱には銀龍2が香嚢・銀香炉・香寳・錦帯を銜え下に障塵がある。青画の輪轅・銀轂・乗葉は三転あり銀龍頭・横木の上に銀鳳12がある。左に青旗12旒を建て、いずれも升龍を繍い、右に闟戟を載せ黼文を繍いいずれも青繍綢の杠を用いる。また青繍の門簾・銀飾りの梯1・拓叉2・推竿1・銀錔頭・銀装の行馬・青繒裹の輓索を設け、青馬6を駕し馬には金があり鵰羽を挿し、鞶纓・攀胸・鈴払・青繍の屜・錦包尾を施す。また誕馬2を輅前に置き駕馬と同じ飾りとする(他の輅及び副輅にもいずれもある)。駕士は64人。
  • 金輅は色を赤とし赤馬6を駕し大旂を建て駕士64人。象輅は色を浅黄とし赭白馬6を駕し大赤を建て駕士40人。革輅は色を黄とし騧馬6を駕し大白を建て駕士40人。木輅は色を黒とし黒騮馬6を駕し大麾を建て駕士40人。金輅以下はいずれも制が玉輅と同じだが玉飾りがないだけである。五副輅はいずれも馬6を駕し駕士40人、銀飾りを用いるべきところはすべて銅で代用し、他の制は正輅に同じ。
  • 政和3年(1113年)、議礼局がさらに黄帝の車輅の制を上奏し、詔によりこれを頒行した。玉輅の箱の上の平盤・黄屋以下はいずれも旧のとおりとし、頂の輪3層の内、一層は素輪の頂とし上に金塗銀の山花葉及び翟羽を施し、青糸繍の雲龍・絡帯2周りに雑色の䋿帯8・銅佩8・銀穗毬2を綴る。平盤の上には紅羅繍の雲龍褥・曲几・扶几を敷き上下に銀螭首24を設け、四角の勾欄に円鑑16・青羅繍の寳相花帯・火珠28を設け、香匱には香炉・紅羅繍の寳相花帯・香嚢・香寳・銀結綬2・紅羅繍の雲龍結綬1・紅錦幟の龍鳳門簾1を設ける。青画の輪轅・銀轂・乗葉・軾匱・横轅・前轅はいずれも金塗銀の螭首で飾り、横轅の上に銀の立鳳12を施す。左に太常12旒を建て、右に闟戟を載せ黼文を繍い、杠袴1は青繍で杠首を銀螭首・金塗銅の鈸・青犛牛尾の払で飾り、青繒裹の索を用いる。青馬6を駕し馬には銅面があり鵰羽を挿し、鞶纓・攀胸・鈴払・青線織の屜・紅錦包尾を施す。また踏路馬2を輅前に置き駕馬と同じ飾りとする。
  • 大祭祀にはこれに乗る。金輅以上はいずれも次第に列を並べ、大朝会・冊命皇太子・諸王・大臣のときは五輅を大慶殿庭に設け「充庭の儀」とする。金輅は赤質で金で末端を飾り大旂を建て他は玉輅と同じで赤馬6を駕す。玉輅で青く飾る部分はすべて金輅では緋とする。象輅は浅黄質で金塗銅を装い象で末端を飾り大赤を建て他は玉輅と同じで赭白馬6を駕す。玉輅で青く飾る部分は象輅では銀褐とする。革輅は黄質で革を鞔い大白を建て他は玉輅と同じで騧馬6を駕す。玉輅で青く飾る部分は革輅では黄とする。木輅は黒質で漆をかけ大麾を建て他は玉輅と同じで黒騮6を駕す。玉輅で青く飾る部分は木輅では皁とする。玉輅で金塗銀装を用いる部分は、象輅・革輅・木輅及び五副輅ではいずれも金塗銅装とする。
  • また礼制局は「玉輅の馬纓は12あるが采がなく古制にそぐわない。五采の罽で樊纓を12就分飾りたい。輅の衡軾にはいずれも鸞和がなく、蓋弓22も古制に合わないので28に増やして星を象りたい」と上言した。また巾車には玉輅は太常を建てるとあるが色を言わず、司常の注では九旗の帛はいずれも絳を用いるとあり周が赤を尚んだためとする。礼記月令には中央では天子は大輅に乗り黄旂を載せるとあり、金象木革の四輅及びその建てる旂は四時に乗り載せるものと合致するのに、今の玉輅の建てる旂は青帛12副を連ねて作り升龍があるが交龍でなく三乗もない、いずれも古制でないと述べた。周の尚ぶ色に依れば赤を、月令の四代を兼ねる制に依れば黄を用いるべきであり、今、太常を改製しその斿の色及び三辰を繍い加えるべきとした。今、その斿を曳地させるべく周官のとおり6人でこれを維持することとした。また左伝に「鍚鸞和鈴は其の声を昭かにする」とあり注に「鍚は馬額に、鈴は旂首にある」とあるのに、今の旂首には鈴がないので増置すべきとし、また車蓋は周では流蘇及び佩各8としているが法象がないので各12に増やすべきとし、輅の末端はすべて玉で飾ることでその実に称うべきところ羅紋雑佩は塗金を用いているので玉に改めるべきとし、また車箱両側の幡には金塗の亀文・鵾翅・左龍右虎があるがこれは後代の制であり蟉龍に改め玉を加えて飾るべきとした。
  • また、太常を見た後に車の後ろから登るのは妨げがあるとし、曲礼に「君の車が将に駕せんとするとき僕は策を執り馬前に立つ。すでに駕したら僕は軨を展べ効駕し衣を奮い右から貳綏を取り、跪いて乗り策を執り轡を分けこれを駆ること五歩にして立つ。君が出て車に就けば君は升車す」とあり、これもまた自ら右から前に入るべきであるとし、今、玉輅の前に式匱があり百制に合わないので改め登車の便に供すべく式の制を改めるべきとした。また礼記に「車が其の式を得る」とあり周官の輿人は隊を三分し一を前に二を後にし揉い具え式となし、その広さの半分をもって式崇となし、三分の軫囲から一を去り式囲とし、三分の軹囲から一を去り轛囲とする(注に立つ者を轛、横たわる者を軹という)とあるので、今、玉輅に式がないことから詔により玉輅は青質を用い輪輈絡帯の色もこれに依り、四柱・平盤・虚匱には赤を用い、蓋弓の数を増やして28とし、左右に建てる旂常はいずれも青とし、太常には日月・五星・二十八宿を繍い旂の上には雲龍を繍い、朱杠・青縚・鈴を12就垂らし、流蘇及び佩をそれぞれ12増やし、樊纓は五采の罽で飾り衡式の上にはさらに鸞和を加え、輅の末端の耀葉・螭頭・雲龍・垂牙・鎚脚・花版・結綬・羅絞・雑佩・羽台・葱台・麻鑢・香寳・壓貼牌字はいずれも玉で飾り、後ろから昇り式匱を去らないこととした。完成すると高さ2丈7寸5分・幅1丈5尺、副玉輅もまた青色を用い旧は馬4を駕したがこれを6に増やし色もまた青とした。
  • 政和4年(1114年)、正副輅の改修が詔され討論の上、金・象・革・木の四輅を新修の玉輅の制度に依らせ、旂常の建てる色はいずれも輅と同色とし闟戟を除去し、車箱両側の幡にあった亀文・鵾翅・左龍右虎の飾りをいずれも蟉龍に改め、蓋弓・博山・流蘇等の数を増やし、軾衡に和鸞を加え古制に合わせた。金輅は朱質で金塗銀の飾りとし、左右に太常・大旂及び輪衣・絡帯等の色はいずれも黄とし、龍旂は9斿とし周官の金輅が大旂を建てる制に依り、馬は騧を駕し樊纓は五采9就とする。象輅は朱質で、制度・装綴・名物はすべて金輅と同じだが象及び金塗銀銅鍮石で飾り、左右に太常・大赤及び輪衣・絡帯等の色はいずれも紅とし、大赤は鳥隼を7斿繍い周官の象輅が大赤を建てる制に依り、馬は赤を駕し樊纓は7就とする。革輅は朱質で、制度・装綴・名物はすべて金輅と同じだが金塗銅鍮石で飾り、左右に太常・大白及び輪衣・絡帯等の色はいずれも浅黄とし、大白は熊虎を6斿繍い周官の革輅が大白を建てる制に依り、馬は赭白を駕し樊纓は5就とする。木輅は朱質で、制度・装綴・名物はいずれも金輅と同じだが金塗鍮石で飾り、左右に太常・大麾及び輪衣・絡帯等の色はいずれも皁とし、大麾は亀蛇を4斿繍い周官の木輅が大麾を建てる制に依り、馬は烏を駕し樊纓は3就とする。四輅の駕馬はそれぞれ6、玉輅の駕士は64人、他はいずれも40人。
  • また礼制局は諸輅の雅飾を増改し、旧の副玉輅は色が青で金で飾っていたのを改めて黄とし玉で飾り、樊纓は玉輅の制に依り、太常を建て色は黄で組で飾り日月を縿に星辰を斿に象り、その長さは地に曳く。旧の金輅は改めて青とし金で飾り、樊纓は五采の罽で9就とし、大旂を建て色は青で組で飾り交龍を縿に升龍を斿に象り、その長さは軫に斉しくする。象輅は改めて赤とし象で飾り樊纓は五采の罽で7就とし、大赤を建て色は赤で組で飾り鳥隼を縿斿に象り、その長さは較に斉しくする。革輅は改めて白とし革で飾り龍勒絛纓を用い、大白を建て色は白で組で飾り熊虎を縿に象り、その長さは肩に斉しくする。三輅はいずれも縷を削って幅とし維ぐ。木輅は旧の色に依り漆で飾りその色は黒とし前は鵠纓とし、大麾を建て色は黒で組で飾り亀蛇を縿に象り、その長さは首に斉しくし縷を充てて幅とし維ぐ。また詔により玉輅の身はなお紅を用い太常・絡帯等は黄を用い、他の常旂・絡帯もその輅の色に随わせた。
  • 高宗が渡江して南へ簿儀仗はことごとく兵火に焼かれた。紹興12年(1142年)、初めて工部尚書の莫将・戸部侍郎の張澄らに天禧・宣和の鹵簿図を考究し故内侍・工匠の記憶や記録を叅酌して制度を定めさせ、この年9月に玉輅が完成し、翌年には金・象・革・木の四輅を作ったが副輅は設けなかった。
  • 玉輅の制は、青色で玉で飾り、通高19尺、輪高63寸、輻径39寸、軸長15尺3寸、頂上を刻んで輪3層とし天圜を象る。外に青玉の博山81(一名耀葉)を施し金塗の龍文を鏤め青羅で覆い「輪衣」といい、玉の佩を垂れ間に五色の犛尾を垂らし「流蘇」(一名䋿帯)という。頂の四角に青羅を分けて垂らし「絡帯」といい表裏に雲龍を繍う。雨に遭えば油黄繒でこれを覆う。輅の中の四柱は地方を象り、前柱に龍を巻き平槃の上に錦褥を敷き前に横軾があり後に錦軟簾を垂らし、車に登るときは後ろから簾を巻き梯級で登る。四面には勾欄を周らせその中を欠いて登降に備え、綏を執る官は先に右から昇り右柱の下に立って顧問に備える。欄柱の頭に玉の蹲龍があり軾の前に牌があり玉を鏤めて「玉輅」と記す。上に玉龍2があり中に御坐を設け黄香木のみでこれを作り黄中の正色を取る意である。下に塗金の蹲龍16を平槃四囲の下に配し、また拓角の雲龍を金采で飾り前後左右各2。前には轅木3があり鱗体で首を昂げ龍形をなし、轅木の上に横竿2を策し前にあるものを「鳳轅」といい馬がこれを負って行き、次に「推轅」といい班直がこれを推して馬力を助け、轅の後に横たわるものを「圧轅」といい人がその後ろで圧して平を取る。車輪は3年に1度替え、心には楡を圏状に数尺用い鉄で防ぎ折裂を防ぎ、大木を横に貫いて軸とし両輪を夾む。輪はいずれも彩画される。これは輅の下飾りである。新しい輪ができるたびに鉄1万斤を載せて試す。左に太常、右に龍旗を建て輅の後の両柱の金環に挿す。前に青馬6を駕し馬には鏤錫・鞶纓・金鈴・紅旄・繍屜・金包騣・錦包尾・青繒裹の索を用いてこれを引く。駕士232人(誕馬12人・左右索128人・入轅馬13人・龍頭子2人・前後で轅を抱える者各6人・推竿4人・捧輪4人・拓叉4人・浄席4人・前攔人員1人・後攔人員1人・前攔馬8人・後攔馬8人・踏道人員2人・踏道20人・小拓叉4人・小梯子2人・燭台2人・香匙剪子2人・左右索人員2人。また呵喝人員2人・教馬官2人・捧輪将軍4人・千牛衛将軍2人・推輪軸官建8人・太常龍旗を抱える官6人・職掌5人・専知官1人・手分1人・庫子8人・装柱工匠2人・諸作工匠15人・蓋を覆う儀鸞司11人・監官3員がある)。
  • 金輅は黄色で金塗銀で飾り、制は玉輅と同じだが高さは5寸低く、博山・輪衣・絡帯・轅・輻・軸はいずれも黄を用い大旂9斿を建て、黄馬6を駕し駕士154人。象輅は朱色で象及び金塗銅で飾り、制は金輅と同じで博山・輪衣・絡帯はいずれも朱を用い大赤7斿を建て、赤馬6を駕し駕士154人。革輅は浅黄白色で金塗銅で飾り、制は象輅と同じで博山・輪衣・絡帯はいずれも浅黄白を用い大白6斿を建て、黄白馬6を駕し駕士154人。木輅は黒色で金塗銀で飾り、制は革輅と同じで博山・輪衣・絡帯はいずれも黒を用い大麾4斿を建て、黒馬6を駕し駕士154人。五輅の駕士の服色は平巾幘・青絹抹額・纈絹対花鳳袍・緋纈絹対花寛袖襖・羅袜絹袴・襪麻鞵とし、その色はそれぞれ輅の色に従う。

大輅

  • 政和6年(1116年)、徐秉哲が「南北郊で皇帝は玉輅に乗って齋宮へ赴くのに、齋宮から壇に赴くとき、まさに天を祀り地を祭る折に大輦に乗るのは礼意に反するのではないか」と述べ、礼制局に討論させたところ、礼制局は「大輅を玉輅の制のとおりに造るべきだが玉で飾らず駕する馬の数もこれに依り、樊纓のみ1就として質を尚ぶ義に称うべきであり、なお大旂12旒を建て龍章・日月とすることで天を象る義に協うべきである。礼が終わり齋宮に還るときは大輦に乗ることに礼の上で嫌いはない」と請い、これに従った。

大輦

  • 周官の巾車氏には輦車があり人が組で挽くもので、宮中で従容として乗る乗り物であった。唐の制には輦が7つあり、一に大鳳輦、二に大芳輦、三に仙遊輦、四に小軽輦、五に芳亭輦、六に大玉輦、七に小玉輦という。太祖の建隆4年(963年)、翰林学士承旨の陶穀が礼儀使として意匠を凝らし大輦を創った。赤質・正方で油画・金塗銀葉の龍鳳装を施し、上の四面に行龍・雲気・火珠・方鑑・銀糸嚢網・珠翠結条・雲龍鈿窠・霞子、四角に龍頭が香嚢を銜え、頂輪に耀葉を施し中に銀の蓮花坐を設け龍紅綾裏・碧牙壓帖の内に円鑑・銀糸香嚢・銀飾りの勾欄・台坐・紅糸絛網・帉錔を設け、中に黄褥を敷き上に御坐・扶几・香炉・錦結綬・几衣・輪衣・絡帯を置きいずれも緋繍・壓金銀綫とし、長竿4に銀裹の鉄鋦・龍頭・魚鈎・錦膊褥・銀装の画梯・拓叉・黄羅縁の席褥帊・梯杖褥・朱索・緋繒油帊を施す。主輦は64人。親しく南郊を祀るとき、太廟を謁して還るとき、鸞駕・黄麾仗を具えるとき、省方還都のときに乗る。真宗は東封の際に旧輦が重すぎるとして別に造らせ700余斤を減らし、以後常用された。
  • 神宗以後、その制は赤質・正方で油画・金塗銀の龍鳳装を施し、朱漆天輪1・金塗銀頂龍1・四面に行龍16・火珠4・四角龍頭4・穗毬12を配し、頂輪に耀葉を施し紅羅輪衣1に銀鈴を綴り紅羅絡帯2、中に御坐・曲几・錦褥等を設け屏風・香炉・結綬・長竿4を施し金塗銀の龍頭で飾る。祀が終わり車駕が内に還るとき輅に乗らなければ大輦に乗る。政和の制は黄質で黄衣を冒せ黄帯で紘い、車箱四囲は桯の外に高さ2尺2寸あり、前楹に軾を設け軾の高さ3尺2寸、後楹に大旂を建て旂は12斿でその長さは地に曳き色は黄、交龍を繍い素帛の縿に日月を繍い弧を張り幅を韣で韜い弧の杠を青錦で綢い竿首に旄を注ぎ鈴で繋ぐ。国朝の輦は7つあったが、中興後はただ大輦・平輦・逍遥の3輦のみとなった。
  • 大輦はまた「大安輦」といい、その制は赤質・正方で高さ15尺3寸・幅11尺6寸、四柱の平槃の上に青緑錦を覆い上に天輪3層があり外に金塗銀の博山81を施し内に円鏡・金塗銀頂龍1・四面に行龍16・火珠4を配し、輪衣は青で金鈴を垂らし頂に青羅の十字を四角に分けて垂らし「絡帯」といい四角から龍首を出し犛牛の五色尾を銜え「旒綏」という。四面には斗を拱き外に方鏡9柱を施し朱欄で囲み、中に御坐・曲几・屏風・錦褥を設け下に長竿4で挙げ攢竹筯に丹漆を膠し竿を龍首とする。平槃の下、四囲に紅糸網を結ぶ。輦官の服色は武弁・黄纈対鳳袍・黄絹勒帛・紫生色袒帯・紫絹行縢。

芳亭輦

  • 黒質で頂は幕屋のようであり、緋羅の衣・裙襴・絡帯にいずれも雲鳳を繍い、両面に朱緑の窗花版を施し外に紅糸網・綢金銅の帉錔を施し前後に簾を垂らし、下に牙牀・勾欄・長竿4・銀龍頭・銀飾りの梯・行馬を設ける。主輦120人。政和の制は簾を紅羅で鵝を額に繍い、内に御坐を設け長竿は金塗銅の螭首で飾り横竿2とする。

鳳輦

  • 赤質で頂輪の下に柱2があり緋羅の輪衣・絡帯・門簾にいずれも雲鳳を繍い、頂に金鳳1、両壁に亀文・金鳳翅を刻み、前に軾匱・香炉・香寳・結帯、下に勾欄2重、内に紅錦褥を設け長竿3・銀飾りの梯・行馬を施す。主輦80人。法駕鹵簿には鳳輦を設けない。

逍遥輦

  • 㯶櫚で屋を作り赤質・金塗銀装、朱漆の扶版2・雲版1・長竿2は金塗銀の龍頭で飾り常の行幸に用いる。また魚鈎・帉錔・梅紅絛を施す。輦官12人は春夏に緋羅衫を、秋冬に白獅子錦襖を着る。東封の際には別に辟塵逍遥輦を造り窗隔のように黄繒で裏打ちし「省方逍遥輦」と名付けた。中興の制は赤質・金塗の四柱・㯶屋の上に走脊の金龍4があり中に火珠が凸頂をなし四面に窗障を設けず中に御踏子があり制はすこぶる簡素、祗応する人員は帽子・宜男方勝襭衫を着る。

平輦

  • また「平頭輦」といい「太平輦」ともいう。飾りは逍遥輦に似るが屋がなく輦官12人の服は逍遥輦と同じ。常の行幸に乗る。東封の際には別に升山天平輦を造り機関を施し「登封輦」と名付けた。中興の制は赤質・正方で形は一朱龍が倚りかかって長くなったようで、竿2は逍遥輦と同様に飾るが㯶屋は施さず制はいっそう簡素で画雲版を施すのみである。また七寳輦があり隆興2年(1164年)に徳寿宮のために製された。高さ51寸、幅27寸、深さ36寸で大輦・平輦の制度に比して作り、頂輪・耀葉・角龍・頂龍・滴子・鐸子・結穗毬を上に施し、下に梅紅糸の裙網を施し七宝を加え綴り、中に香木の御座を設け引手を転身龍とし靠背を龍首の形とし靠枰子は紅黄の藤を織り、担ぐ長竿2は螭首で金塗銀で飾る。当初、有司は「東都の旧制は輦を玉で飾り裙網に七宝を用い滴子には真珠を用いた」と言ったが、帝は「上皇の意はそうではなく、ただ簡素を欲するのみである」と言い、塗金で玉に代え梅紅糸の結びで裙網の間に七宝を綴り象牙で真珠に代えることとなった。その後、上皇は却って受けず、大内に至るときはたいてい馬に乗り、たまに行幸するときは肩輿を用いた。これ以降、重華宮・寿康宮の両宮はともに別に造らなかった。

小輿

  • 赤質で頂輪の下に曲柄を施し蓋のようにし緋繍の輪衣・絡帯を施し制は鳳輦に似るがやや小さく、下に勾欄・牙牀・繍瀝水を設け中に方牀を設け緋繍羅衣・錦褥、上に小案・坐牀があり皆繍衣、踏牀は緋衣、前後に長竿2・銀飾りの梯・行馬を施す。奉輿24人。中興後はその輪蓋を去り幅49寸・高さ31寸とし、輿上を勾欄で囲み翟羽・玉照子を施し中に方牀3級を設け上に御坐・曲几・踏子・曲柄の緋羅繍蓋を設け、輿下に紅糸で結んだ五色の花裙網を施し担ぐ長竿2は螭首とする。宮殿で従容として乗るもので鹵簿を設けるときはこれを陳ねる。

腰輿

  • 前後の長竿各2は金銅の螭頭、緋繍鳳の裙襴、上に錦褥を施し別に小牀を設け緋繍花龍衣、奉輿16人。中興の制は赤質・方形で四面に曲欄があり下に繍の裙網を結び制は小輿に似るが翟尾・玉照子はなく3級の牀・曲柄の蓋があり上に方形の御床・曲几を設ける。担ぐ竿に螭首はなく用途は小輿と同じである。

耕根車

  • 青質で蓋は3層、他は五輅の副に依る。青馬6を駕し駕士40人。親祠のとき大駕・法駕の鹵簿を具えるときはいずれも仗内に列し、耕籍の礼があればこれに乗る。国朝の車は耕根車以下凡そ15あったが、南渡後に存するのはただ耕根車1つのみとなった。その制度はすべて同じだが駕士は75人となった。

進賢車

  • 古の安車である。太祖の乾徳元年(963年)に改め、赤質で両壁に紗窗・擎耳・虚匱1・轅1、緋幰衣・絡帯・門簾にいずれも鳳を繍い紅糸網を施し、中に朱漆牀・香案・紫綾案衣・緋繒裹の輓索・朱漆の行馬を設ける(凡そ車にはいずれも輓索・行馬がある)。馬4を駕し駕士24人。

明遠車

  • 古の四望車である。牛で駕したが、太祖の乾徳元年に改め馬4を用いた。赤質で制は屋のようで重櫩・勾欄があり上に金龍があり四角に銅鐸を垂らし、上層の四面に簾を垂らし下層は花版で囲む。轅3で駕士40人、対鳳を繍った服を着る。

羊車

  • 古の輦車であり、また画輪車ともいう。牛で駕したが、隋は果下馬で駕し、今もまた小馬2で駕す。赤質で両壁に亀文・金鳳翅を画き緋幰の衣・絡帯・門簾にいずれも瑞羊を繍う。童子18人。

指南車

  • 一名「司南車」という。赤質で両箱に青龍・白虎を画き四面に花鳥を画き、重台・勾欄・鏤拱があり四角に香嚢を垂らし、上に仙人があり車が転じても手は常に南を指す。轅1で鳳首、馬4を駕し駕士は旧18人であったが太宗の雍熙4年(987年)に30人に増やされた。
  • 仁宗の天聖5年(1027年)、工部郎中の燕粛が初めて指南車を造った。燕粛は上奏して「黄帝が蚩尤と涿鹿の野で戦ったとき、蚩尤が大霧を起こし軍士が方向を見失ったため、帝はついに指南車を作った。周の成王の時代、越裳氏が幾重にも通訳を経て来朝したが使者が道に迷い、周公は軿車を賜って南を指させた。その後この方法は伝わらなくなり、漢の張衡・魏の馬鈞が相次いで作ったが世が乱れ離散しその器は残らなかった。宋の武帝が長安を平定した際にこの車を作ったが精巧でなく、祖沖之もまたこれを造った。後魏の太武帝は郭善明に作らせたが数年経っても成らず、扶風の馬岳に作らせたところ完成間際に善明の讒言により鴆殺されその方法は絶えた。唐の元和年間、典作官の金公立がこの車及び記里皷を献上し、憲宗が麟徳殿でこれを閲し法駕に備えたが、五代を経て国朝に至るまでその制を得た者を聞かない。今、意匠を凝らしてこれを完成させた」と述べた。その方法は独轅車を用い、車箱の外の籠の上に重構を立て木の仙人を上に置き腕を引いて南を指させ、大小の輪9を用い歯を合わせること120、足輪2は高さ6尺・囲1丈8尺、附足の立子輪2は径2尺4寸・囲7尺2寸で歯を各24出し歯の間の距離は3寸、轅端の横木の下に小輪2を立てその径3寸、鉄軸がこれを貫き左の小平輪1はその径1尺2寸で歯12を出し、右の小平輪1もその径1尺2寸で歯12を出し、中心の大平輪1はその径4尺8寸・囲1丈4尺4寸で歯48を出し歯の間の距離は3寸、中に貫心軸1を立て高さ8尺・径3寸、上に木を刻んで仙人とする。その車が行き木人が南を指す際、もし東に折れれば轅を右に推し右旋させ右足の子輪に付き順に12歯転じ右の小平輪に繋ぎ一匝すると中心の太平輪に触れ左旋し4分の1転じて12歯となり車は東行し木人は南を交わり指す。もし西に折れれば轅を左に推し左旋させ左足の子輪に随い順に12歯転じ左の小平輪に繋ぎ一匝すると中心の太平輪に触れ右旋し4分の1転じて12歯となり車は正しく西行し木人は南を交わり指す。北に行こうとするとき、あるいは東西に行くときも転じ方はこれと同様である、と。詔によりその方法を有司に下し製させた。大観元年(1107年)、内侍省の呉徳仁がまた指南車・記里皷車の制を献上し、二車が完成しその年の宗祀大礼に初めて用いられた。その指南車は身の丈1丈1尺1寸5分・幅9尺5寸・深さ1丈9寸、車輪の直径5尺7寸、車轅1丈5寸、車箱は上下2層に分かれ中に屏風を設け上に仙人1を安置し杖を執らせ左右に亀・鶴各1、童子4がそれぞれ纓を執って四角に立ち、上に関棙を設け卧輪13、いずれも径1尺8寸5分・囲5尺5寸5分で歯32を出し歯の間の距離は1寸8分、中心の輪軸は屏風に随い下に貫き、下に輪13があり中は大平輪に至りその輪の径3尺8寸・囲1丈1尺4寸で歯100を出し歯の間の距離は1寸2分5釐、通じて上下左右に起落の小平輪各1があり鉄墜子各1、いずれも径1尺1寸・囲3尺3寸で歯17を出し歯の間の距離は1寸9分、また左右の附輪各1は径1尺5寸5分・囲4尺6寸5分で歯24を出し歯の間の距離は2寸1分、左右の畳輪各2は下輪各々径2尺1寸・囲6尺3寸で歯32を出し歯の間の距離は2寸1分、上輪各々径1尺2寸・囲3尺6寸で歯32を出し歯の間の距離は1寸1分、左右の車脚上にそれぞれ輪1を立て径2尺2寸・囲6尺6寸で歯32を出し歯の間の距離は2寸2分5釐、左右の後轅にそれぞれ小輪1があり歯はなく竹䉡・索を左右の軸上に繋ぎ、右に転じれば右轅の小輪が右輪に触れて落ち、左に転じれば左轅の小輪が左輪に触れて落ち、行けば仙童が南を交わり指す。赤馬2を駕し銅面・鵰羽を挿み鞶纓・攀胸・鈴払・緋絹の屜・錦包尾を施す。

記里皷車

  • 一名「大章車」という。赤質で四面に花鳥を画き重台・勾欄・鏤拱があり、1里行くごとに上層の木人が皷を撃ち10里行くごとに次層の木人が鐲を撃つ。轅1で鳳首、馬4を駕し駕士は旧18人であったが太宗の雍熙4年に30人に増やされた。仁宗の天聖5年、内侍の盧道隆が記里皷車の制を上奏した。独轅・双輪で車箱の上を2重に分けそれぞれ木人を刻んで槌を執らせ、足輪はそれぞれ径6尺・囲1丈8尺で足輪が一周すると地を3歩行く(古法では6尺を1歩、300歩を1里とし、これに較べ今法では5尺を1歩、360歩を1里とする)。立輪1を左足に附し径1尺3寸8分・囲4尺1寸4分で歯18を出し歯の間の距離は2寸3分、下の平輪1はその径4尺1寸4分・囲1丈2尺4寸2分で歯54を出し歯の間の距離は附立輪と同じ、貫心軸1を立てその上に銅の旋風輪1を設け歯3を出し歯の間の距離は1寸2分、中に平輪1を立てその径4尺・囲1丈2尺で歯100を出し歯の間の距離は旋風輪と同じ、次に小平輪1を安置しその径3寸少半寸・囲1尺で歯10を出し歯の間の距離は1寸半、上の平輪1はその径3尺少半尺・囲1丈で歯100を出し歯の間の距離は小平輪と同じ、その中の平輪が一周すると車は1里行き下層の木人が皷を撃ち、上の平輪が一周すると車は10里行き上層の木人が鐲を撃つ。凡そ大小の輪8を用い歯285を合わせて相互に鈎鏁し犬牙のように相互に制し周而復始する。詔によりこの方法を有司に下し製させた。大観の制では車箱の上下2層に木人2を安置し身にそれぞれ木槌を執らせ輪軸を四内に、左壁の車脚の上に輪1を立て車箱内に安置しその径2尺2寸5分・囲6尺7寸5分で歯20を出し歯の間の距離は3寸3分5釐、また平輪1はその径4尺6寸5分・囲1丈3尺9寸5分で歯60を出し歯の間の距離は2寸4分、上の太平輪1は通軸を上に貫きその径3尺8寸・囲1丈1尺で歯100を出し歯の間の距離は1寸2分、立軸1はその径2寸2分・囲6寸6分で歯3を出し歯の間の距離は2寸2分、外の太平輪の軸上に鉄の撥子2があり、また木の横軸の上に関棙・撥子各1があり、その車脚が100回転じると通輪軸が一周し木人各2が鉦と皷を撃つ。

白鷺車

  • 隋が制したもので、一名「皷吹車」という。赤質で花版を周りに施し上に朱柱があり5輪を重ねて貫き、輪衣は緋・皁で頂及び緋の絡帯にいずれも飛鷺を繍い柱の先には木を刻んで鷺の形とし鵝毛の筩・紅綬帯を銜えさせる。轅1で馬4を駕し駕士18人。

鸞旗車

  • 漢の制で前駆とした。赤質で曲壁があり轅1に赤旗を載せ鸞鳥を繍う。馬4を駕し駕士18人。

崇徳車

  • 本来秦の辟悪車である。上に桃弧・棘矢があり不祥を禳却する意である。太祖の乾徳元年に改め赤質で花版を周りに施し四角に辟悪獣を刻み、中に黄旗を載せ赤くこの獣を繍い、太卜署令1人が車中でこの旗を執る。馬4を駕し駕士18人。政和の制は黄羅に崇徳旗1を繍い建て彩画で獬豸4を刻む。宣和元年(1119年)、礼制局が「崇徳車は太卜令1員を載せ辟悪獣を旗に描くが、記には『前巫而後史』とあり、伝には『桃弧・棘矢は以て王事を禦ぐに供す』とあるので、巫を以て太卜に代え、弧矢を以て辟悪獣に代えるべき」と上言し、これに従った。

皮軒車

  • 漢の前駆車である。虎皮を冒せて軒とする。曲礼の「前に士師あれば則ち虎皮を載す」の義を取ったもの。赤質で曲壁があり上に柱があり5輪を重ねて貫き虎文を画く。馬4を駕し駕士18人。政和の制は漆柱を用い朱漆の皮軒5を貫く。

黄鉞車

  • 漢の制で乗輿がこれを建て大駕の後に置いた。晋の鹵簿には黄鉞車があったが唐の初めにはなく貞観以後に加えられた。赤質で曲壁があり中に金の鉞1を設け錦嚢で綢い杠とする。左武衛の隊正1人が軍中でこの鉞を執る。馬2を駕し駕士15人。

豹尾車

  • 古は軍正が豹尾を建てた。漢の制では最後尾の車1乗に豹尾を垂れ、豹尾より前は禁中と同じ扱いであった。唐の貞観以後に初めてこの車が鹵簿に加えられ、制は黄鉞車と同じで朱漆の竿首に豹尾を綴る。右武衛の隊正1人がこれを執る。馬2を駕し駕士15人。

屬車

  • 一名「副車」、一名「貳車」、一名「左車」という。秦の制では大駕の属車は81乗、法駕は36乗であった。漢の法駕は31乗、小駕は12乗を用いた。隋の制では大駕36乗、法駕12乗で小駕には用いなかった。唐の大駕はただ32乗であり、宋はこれに因った。黒質で両箱に軬装、前に曲欄があり金銅で飾り、上に紫の通幰・絡帯・門簾を施しいずれも雲鶴を繍い紫糸網・帉錔を施す。乗ごとに牛2を駕し駕士10人。

五車

  • 徽宗の宣和元年(1119年)、礼制局は「旧鹵簿の記録に白鷺・鸞旗・皮軒の3車があるが、その制は古ではない。曲礼によれば『前に水あれば則ち青旌を載す、前に塵埃あれば則ち鳴鳶を載す、前に車騎あれば則ち飛鴻を載す、前に士師あれば則ち虎皮を載す、前に鷙獣あれば則ち貔貅を載す』とあり、万乗が一度出るごとに五車を必ず載せて衆を警めるものである。青旌・鳴鳶・飛鴻・貔貅を白鷺・鸞旗と雑然と並べるのは礼に合わない。今、五車を改めて中道に相次いで陳ね崇徳車をこれに継がせるべき」と上言し、これによって整備された。青旌車は赤質・曲壁で中に青旌を載せ絳帛で作り青鳥を上に画く。鳴鳶車は赤質・曲壁で中に鳴鳶の旌を載せ絳帛で作り鳴鳶を上に画く。飛鴻車は赤質・曲壁で中に飛鴻の旌を載せ絳帛で作り飛鴻を上に画く。虎皮車は赤質・曲壁で中に虎皮の旌を載せ絳帛で作り赤で縁取り虎皮を上に画く。貔貅車は赤質・曲壁で旌は絳帛で作り赤で縁取り貔貅を上に画く。轅はいずれも1つ。

涼車

  • 赤質で金塗銀装、龍鳳・五采の眀金を紅黄の藤で織り、油壁・緋糸の絛・龍頭・梅紅羅の褥・銀螭頭・穗毬・雲朶・踏頭・蓮花坐・鴈鈎・火珠・門沓・□(底本欠字)鉞・頻伽・大小の鐶を施し槖駝で駕す。省方の途上及び校猟の際にこれに乗る。

相風烏輿

  • 上に長竿を載せ竿の先を刻んで烏の形とし鵝毛の筩・紅綬帯を垂らし、下に小盤を承け周りに緋の裙で烏の形を繍う。輿士4人。

行漏輿

  • 隋の大業年間の行漏車である。制は鐘皷楼に同じでやや大きく、刻漏を秤の衡のように設け首に銅の鉢を垂らし末に銅象があり漆匱に水を貯え渇烏で鉢の中に水を注ぐ。長竿4、輿士60人。

十二神輿

  • 赤質で四門の傍らに十二辰神を刻み緋繍の輪衣・絡帯を施す。輿士12人。

交龍鉦皷輿

  • 各1で、いずれも木を刻んで青龍2が交わる姿とし下に木台があり長竿1に画皷1を掛け金鉦1を掛け、上にいずれも緋の蓋があり交龍を繍う。輿士各2人。中興後、相風・行漏・十二神・鉦皷の4輿はいずれも省かれた。

鐘皷楼輿

  • 各1で、本来隋の大駕の鐘車・皷車である。いずれも木を刻んで屋の形とし中に鐘・皷を置き下に木台を施し長竿は鉦皷輿と同じ、輿士各24人。行漏輿・十二神輿・交龍鉦皷輿・鐘皷楼はいずれも旧礼に記載がなく、太祖の開宝年間に礼を定めた際に増補されたものである。