宋史卷一百三十一 樂志第八十四 樂六

光宗即位 尊号奉呈と各種祭祀の楽(1189年-)

  • 光宗の受禅にあたり、寿皇聖帝(孝宗)への尊号奉呈に乾安、寿聖皇后・寿成皇太后への奉呈に坤安の楽を用い、三殿での慶礼は当時盛儀とされた。
  • 礼部・太常寺は「国朝の嵗饗上帝は、太祖が王業を開いたことから冬饗(圜丘)に配し、太宗が天下を統一したことから春の祈穀・夏の大雩・秋の明堂にも配してきた。高宗は大業を成し徳が厚いので、あわせて祭るべきである」と上奏し、季秋の明堂に高宗を配することとなった。奠幣に宗安、酌献に徳安の楽を用い、大呂宮で登歌。高宗への尊号奉呈の告祭には顕安の楽を用いた。
  • 紹熙元年、初めて中宮(皇后)冊礼を挙行。文徳殿での発冊に乾安(皇帝の昇降)、正安(持節官の出入り)、穆清殿での受冊に承安(褥位への到着)、成安(受冊)、和安(内外命婦の賀の着座)、恵安(内命婦の賀)、咸安(外命婦の賀)、徽安(皇后の降坐)、太安(帰閤)、宜安(冊宝の入殿門)と、各段階ごとに異なる楽曲を配した。
  • 后の冊立の礼は景祐に始まり、元祐の納后でも典章は整ったが、当時は冊書発給の日には楽を備えず、皇后が宣徳門に入る際に鐘鼓を鳴らすのみだった。崇寧年間になって初めて宮架を設け女楽工を用いる制度が導入され、紹興ではさらに楽を製したが女工の使用を避け門外での設楽に改め、隆興の冊礼では国楽が未整備であったため淳熙になって初めて本格的に用いられ、紹熙でさらに詳備された。紹興の楽は仲呂宮(陰)、紹熙の楽は太簇宮(陽)と、用いる律が異なる点も記される。
  • 明年の郊祀で太常の耿秉は「祭祀の敬意は礼楽を本とするが、現用の雷鼓の類は皮革が緩んで音が振るわず、登歌・大楽の楽器・楽舞工の冠服も老朽化している。太常籍の楽工では役に足りず、募集した百姓は習熟しにくいので、優待の日廩を籍田司の予算から支給し、私的に権要へ縁故で名を連ねる者は厳しく取り締まるべき」と上奏。また大礼前の太廟朝饗で、これまで大臣が分担して行っていた安穆皇后・恭皇后の二室への酌献を、親祭となったことにより奏する楽曲を改めて制定すべきと上奏し、いずれも採用された。
  • 寧宗の即位に伴い孝宗が升祔され、僖祖のために別廟が立てられた(唐の興聖廟の例に倣う)。礼官は「祫祭の日には先に僖祖廟室で行礼すべきで、毎年の別廟五饗の礼に準じ登歌楽を設け、宮架楽は太廟殿上で通して奏する」との案を上奏し、採用された。
  • 重明節(皇太后誕生日)に皇帝が寿康宮へ上寿に赴き楽を奏する典礼をめぐり、従来天申節では上寿の翌日に群臣へ賜宴していたが、重明節では前日に賜宴していたため「臣下が君父より先に楽を聴くのは礼に反する」との指摘があり、賜宴を翌日に改めた。慈福・寿康宮への冊宝奉呈も乾道の旧制に倣って再整備され、皇后冊立でも宮架楽の使用が定められた。
  • 慶元六年、瑞慶節に訪れた金使が光宗の慈懿皇后の喪中であったため、宴席は駅館で賜るのみで楽は用いなかった。嘉定二年、明堂大饗にあたり礼部尚書の章穎は「太常の楽工籍が不足し、素性の知れない者を借り出して薦饗に当たらせるのは儀衛・禁防上望ましくない」として紹興・開禧の禁令の徹底を求め、あわせて臣僚から「郊祀登歌は壇上に、宮架は午階下に置かれ、それぞれ天地祖宗・百神に対応する重要な役割を持つのに、楽器の欠損や楽人の質の低下が見られる」との指摘があり、いずれも採用された。
  • 十四年、山東・河北の連城が服属し玉宝(文言「皇帝恭膺天命之宝」)を献上したことを記念し、翌年元日の受宝の儀で恭膺天命・旧疆来帰・永清四海の三章を太簇宮で奏した。
  • 理宗は40年余りの在位中、礼楽の制度に大きな改変を加えなかった。孝宗廟には大倫、光宗廟には大和、寧宗廟には大安の楽舞が定められた。紹定三年、中宮冊礼は紹熙元年の典礼を踏襲し、明仁福慈睿皇太后への上寿冊宝奉呈にあたっては新たに楽曲が制作された。

姜夔の大楽議(南宋中期)

  • 中興以来60〜70年、士大夫の多くが楽典の欠落を嘆き、古制の考証・補完を志した。その代表として姜夔が朝廷に大楽議を進呈した。要旨は次の通り。
  • 紹興以来の大楽は大晟が造った編鐘・鎛鐘・景鐘、特磬・玉磬・編磬など複数の鐘磬から成るが、互いの音が必ずしも整合していない。塤・簫・箎・篴・笙竽の管や簧の厚薄も一定せず、琴瑟の弦の緩急や柱の位置も調律が難しい。金(鐘)は石(磬)に、石は絲(弦楽器)に、絲は竹(管楽器)に、竹は匏(笙)に、匏は土(塤)に、それぞれ応じるべきだが、実際に応じているか疑わしい。
  • 楽曲は七律を一調とすることは知っていても「度曲」(旋律を作る技法)の本義を知らず、一律を一字に配することは知っていても「永言」(歌詞に音を長く乗せる技法)の趣旨を理解していない。四声(平上去入)と七音の配当も、実際には多くが調和していない。琴瑟は調ごとに弦や柱を変える必要があり、扱いが特に難しく、しかも音が小さいため鐘磬や太鼓の音にかき消されやすい。歌に合わせて鐘を四度、竽を一度吹くような不整合も生じている。
  • 楽工が世襲的に籍を占めるだけで、鐘磬・匏竹・琴瑟いずれも音律を理解しないまま演奏しており、合奏すれば手が揃わず、交互奏では音が続かない。近年、人事の不調和・天候の異変が続くのも、大楽が神人を感応させる力を発揮できていないためだとする。
  • 五音と人倫(宮=君父、商=臣子、徴=火、羽=水など)の対応関係を説き、火気(徴)を助け水気(羽)を抑えるなど陰陽の均衡を図るべきとする。
  • 知音の士を招いて太常の楽器を校正し、楽曲の五音・四声を整理したうえで楽工を選別し、上級者には金石絲竹匏土と詩歌を、中級者には撃・干羽・四金の技を教え、下級者は淘汰すべきと提案。
  • 雅楽・俗楽の高低が乱れている実情を指摘し、尺律の法が漢魏に絶えて以来、十五等の尺が雑多に用いられ、倍四の器や上宮調・下宮調、中管倍五、羌笛・孤笛・双韻十四弦、夏笛・鷓鴣・胡盧琴・渤海琴など、私的な高下の楽器が乱立していることを批判。太常・文思院の基準に統一すべきと主張。
  • 古楽は十二宮のみを用い(黄鐘一宮を特に重んじた)、十二調による雅楽と、鄭訳の八十四調に代表される胡楽由来の宴楽(大食・小食・般渉・伊州・石州・甘州・婆羅門・緑腰・誕黄龍・新水調等)とは区別すべきで、雅楽は十二宮を、宴楽は八十四調を用いる周制・唐制それぞれの筋を通すべきとする。
  • 登歌と奏楽の陰陽対応(奏=六律=陽、歌=六呂=陰)が唐以来崩れている実例(趙慎言の指摘)を挙げ、現行の太常楽曲の不整合を正すべきとする。
  • 登歌・徹豆で歌う詩は古の周制(迎神=嘉至、皇帝入=永至、いずれも声のみで詩なし)から晋以降に詩が増え、隋唐以来さらに増加した経緯を辿り、周制に倣い簡素化すべきとする。
  • 祖宗の功徳を歌う鼓吹曲(漢の短簫鐃歌、魏の克官渡等の曲、晋の征遼東等の曲、唐の柳宗元による鐃歌)の先例に倣い、太祖・太宗の統一、真宗の澶淵での契丹撃退、仁宗の徳治、高宗の中興を讃える歌詩の制作を提案し、姜夔自ら「聖宋鐃歌曲」14篇(上帝命・河之表・淮海清・沅之上・皇威暢・蜀土邃・時雨霈・望鐘山・大哉仁・謳歌帰・伐功継・帝臨墉・維四葉・炎精復)を作り尚書省に進呈、詔で太常に付された。
  • ただし姜夔は「楽を作るにはまず黄鐘を定めねばならないが、その方法について最終的な定説を示せなかった」とも評され、現行の楽の詳細な分析には長じていたが、古楽の律の根源にまでは説き及ばなかったとされる。

朱熹・蔡元定の律呂研究(慶元前後)

  • その後、朱熹は先人の制作が失われつつあることを深く嘆き、友人の蔡元定(武夷)とともに律呂の学を講究し、その根源を突き詰めた。慶元年間、経筵での上奏で「秦の学問破壊以来、礼楽が廃れ、楽の教えは師伝を絶ち、律尺の長短・声音の清濁を知る学者もいない」と述べ、学徒を集めて礼楽の書を編纂する許可を求めた。後に礼書の中で鐘律・楽制篇として結実した。
  • 蔡元定はまず律呂の本原を篇立てて論じ、朱熹がそれを敷衍・証辨した。要旨は次の通り。
  • 黄鐘篇:天地の数は一から十まであり、奇数(一三五七九)は陽、偶数(二四六八十)は陰。黄鐘は陽声・陽気の始まりで、竹管を切って吹き、声と気が調和した時に長さ九寸・囲九分・積八百一十分という「律本」の寸法が定まり、そこから度量権衡・十一律が導かれるとする。〔証辨〕後世が金石や秬黍で律を求めるようになったが、秬黍は長短大小が一定せず頼れない。声気の調和という自然の基準に立ち返るべきとする。
  • 黄鐘生十一律篇:子・寅・辰・午・申・戌の六陽辰は下生(三分損一)、丑・卯・巳・未・酉・亥の六陰辰は上生(三分益一)する。陽辰は自らの位で得られ、陰辰は対応する陽辰の衝の位に置かれる。ただし林鐘・南呂・応鐘の三呂は増減なく、大呂・夾鐘・仲呂の三呂は陽位にあるため倍数を用いる、という陰陽自然の理を説く。〔証辨〕呂氏春秋・淮南子と司馬遷・漢書の異同を指摘し、呂氏春秋・淮南子の説は数の多寡のみに基づき陰陽の秩序を欠くとする。
  • 十二律篇:黄鐘・林鐘・太簇は寸単位、南呂・姑洗は分単位というように、律ごとに端数の精度が異なり、仲呂に至ると三分損益がこれ以上割り切れなくなるため、律が十二で止まる理由を説明する。〔証辨〕黄鐘は他律に優越し「君」の象徴であり、大呂・夾鐘・仲呂・㽔賔・夷則・無射はいずれも変律・半声を用いて黄鐘の代わりを務めることはできないとする。
  • 変律篇:十二律それぞれが宮となって五声二変を生むが、黄鐘・林鐘・太簇・南呂・姑洗・応鐘の六律は五声を十分に備える一方、㽔賔・大呂・夷則・夾鐘・無射・仲呂の六律は音が低く不調和なため「変律」(正律よりやや高い音)が必要となる。変律は正律ではないため宮にはなれないとする。〔証辨〕京房の四十八律への拡張や何承天・劉焯らの修正案を批判し、変律が六に限られるのは自然の数であり、無理に増減すべきでないとする。
  • 律生五声篇:宮八十一・商七十二・角六十四・徴五十四・羽四十八の数値と、三分損益による相生の順(宮→徴→商→羽→角)を示し、角声(六十四)でこれ以上割り切れなくなるため五声で止まる理由を説く。〔証辨〕沈括の誤解(五十四を黄鐘の徴・夾鐘の角・仲呂の商とする説)を批判し、李照・范鎮の十二律限定説の不備も指摘する。
  • 変声篇:変宮(四十二)・変徴(五十六)の二変声の算出法(角声の実六十四を九倍して損益し、五声の枠組みに合わせて縮約する)を示し、変声が二つに限られる理由を説く。変宮・変徴は正声ではないため調の基準にはなれないとする。〔証辨〕変宮・変徴が自然に生じることは左氏伝の「七音」や漢書の「七始」にも見えるが、五声を補うものに過ぎず、これのみでは楽を成せないとする。
  • 八十四声篇:黄鐘は他律の支配を受けない一方、林鐘以下は半声・変律を用いる必要があり、仲呂は十二律の窮まりとして三変声となる。正律六十三・変律二十一からなる八十四声の内訳を示す。
  • 六十調篇:十二律が旋相為宮し各七声を持つことで八十四声・六十調が成り立つ理屈(宮・徴は調にならない声を含むため実質六十調となる)を、黄鐘宮から応鐘宮までの起調・畢曲の対応表とともに詳述する。陰陽の対応(三十六調=老陽、二十四調=老陰)にも論及する。〔証辨〕礼記・周礼の「還相為宮」の解釈を引きつつ、変宮・変徴を含めた八十四調とする後世の解釈を「考証不足」と批判する。
  • 候気篇:十二律を二十四節気に配当し、暦に照らして気の昇降を候する方法を論じ、律呂の三分損益が循環せず終始する理由(陽の昇りは子から始まり已で窮まり、陰の昇りは午から始まり亥で窮まる非対称性)を説明する。易が陰陽すべてを備えるのに対し、律は「黄鐘一声」に本義を集約するものとし、これが「中声」であり人の喜怒哀楽が未発の状態、あるいは発して節に中る状態に通じるとする。〔証辨〕秬黍の縦横に頼るのではなく、声気の調和という自然の基準に戻るべきとする。
  • あわせて度量衡の審定にも詳しく及び、黄鐘を「中声の符験」として位置づける。朱熹はこの書を高く評価し「国家が中原を平定した暁には、必ず音律を審らかにして神人に協うようにするだろうから、詔勅を担う臣はこの書を得て東都の郊廟の楽に備えるべきだ」と述べた。朱熹自身も鐘律・楽制・楽舞等の篇を礼書の中に体系立ててまとめ、鐘律篇は前後二部に分けられた。前篇は七条(十二律の隂陽辰位相生次第の図、十二律の寸分釐毫絲忽の数、五声五行の象と清濁高下の次、五声相生損益の先後、変宮変徴の相生法、十二律の正変倍半の法、旋宮八十四声六十調の図)、後篇は六条(五声の義、十二律の義、律寸旧法、律寸新法、黄鐘分寸数法、黄鐘生十一律数)から成り、多くは蔡元定の説に基づきつつ演繹を加えたものであった。楽制は王朝礼に、楽舞は祭礼に、それぞれ体系的に組み込まれ、古楽の復興を志向するものとして高く評価される。

宋代を通じた律論の変遷(総括)

  • 宋の楽議は時代ごとに提起され、その律の高低には次のような経緯があった。建隆初年、王朴の楽を太祖が「高すぎて哀しげだ」として、和峴に西京表尺を考証させ一律下げたところ調和した。景祐・皇祐年間には楽議の詔が繰り返し出され、李照が朴の楽よりさらに三律下げる改定を行ったが、縦黍で尺を定めたため理論上は古律に適っても実際に造った鐘磬は太簇にしか合わず、楽と器が矛盾した。阮逸・胡瑗はさらに一律下げる案を出したが、尺から律を導いたため黄鐘律が短くなり、結局音は再び高くなった。
  • 元豊年間、楊傑の指摘を受け范鎮・劉几に検討させたところ、劉几・楊傑は旧楽より三律下げる案を、范鎮は「声が鄭衛に似て雑じっている上、律に四釐六毫の誤差があり太簇が黄鐘宮になってしまっている」として、真の黍を求めて尺律を正す楽を自ら制作して献上、李照よりさらに一律下げる案を提示した。元祐に至って廷議で范鎮案が奨励されたが、当初范鎮は房庶(漢書の異本に基づき大府尺を黄帝時代の尺とする説)の考証に依拠しており、司馬光がこれを強く批判。范鎮は周の鬴・漢の斛を根拠にしたが、光は「鬴は考工記の記述、斛は劉歆の作で経に基づかず論拠として弱い」と反論。范鎮は開元期の笛・方饗が仲呂に合致し、太常楽より五律、教坊楽より三律低いと調べたが、光は「それは開元の仲呂に過ぎず、必ずしも后夔(舜の楽官)の律と合致するとは限らない」として奏上を止めさせた。光と鎮は生涯を通じ大節で一致しながら、鐘律論だけは30年余り議論が分かれ、決着を見なかった。
  • この間、濂洛関輔の諸儒が興り、義理の探究を深めた。周敦頤は「古の聖王は礼で三綱を正し九疇を序し、楽で八風の気を宣べた。楽の声は淡くして傷つけず、和して淫らでない時、人の心も平らかに和らぐ。後世は礼法が乱れ刑政が苛烈になり、新声が欲を増大させて悲しみを導き、軽率な生や倫を乱す者を防げなくなった」と論じた。程頤は「律は自然の数であり、先王の楽は必ず律によって声を考証した。尺度・権衡の正しさもみな律に発する。律は天地の気を基準とし、秬黍によるものではない。黄鐘の律は知音の者が上下の声を参照すれば自ずと正しく定まる」と論じた。張載は「声音の道は天地に通じ、蚕が糸を吐けば商弦が絶えるように、金気が盛んになれば木気が衰えるのは自然の理である。今人は古楽を過度に難解なものと考えて『知り得ない』としてしまうが、律呂には求め得る理があり、徳性の深い者だけがそれを知り得る」と論じた。朱熹と蔡元定はこの三儒の学を深く講究し、繰り返し検討を重ねてその要諦をまとめ上げたとされる。