建炎年間 南渡直後の縮小方針(1127-1128年)
- 高宗は即位に際し「祖宗の遺沢を継ぐ身として、艱難のさなかに音楽を楽しむのは忍びない」との詔を出し、儀礼音楽を控える方針を示した。建炎二年には重ねて「音楽を遠ざけ、耳に入れないようにしている。旧来の典故は廃さずとも名のみ残す形でよい」との詔が出され、実質的な省減が進んだ。
- この年、光武帝の建武二年の故事に倣って郊祀を創始し、十一月に維揚(揚州)に仮設した壇で祀天の礼を行ったが、鹵簿・楽舞の類はほとんど未整備で、警場(夜警の合図)も中軍の金鼓で代用する状態だった。
紹興前期 楽制の再建(1131-1140年)
- 紹興元年、会稽(紹興)駐蹕中に初めて明堂祭祀を挙行。渡江の際に旧楽器はすべて焼失・散逸していたため、太常卿の蘇遅らは望祭の礼に準じ、登歌のみを設けて楽工47人で対応した。
- 紹興四年、国子丞の王普が「詩→歌→律呂の順で楽を作るのが古法であり、崇寧以後の『先に譜を作り後で詞を当てる』やり方は詞と律が調和しない」と批判し、古制への回帰を提案。また周礼の規定に基づき、郊祀の還位楽(黄鐘)と明堂の還位楽(大呂)を区別すべきと上奏し、いずれも採用された。財政難のため楽制は当面簡略化(登歌のみで宮架を兼ねさせ、押楽官・楽工の器服等を大幅削減)されたが、国力回復とともに徐々に整備が進んだ。
- 紹興十年、太常卿の蘇檝が宮架楽舞の欠如を指摘し、諸路州軍に残る旧頒布の登歌大楽の捜索を要請。丞の周執羔は文武二舞の教習を、旧大晟府の二舞色長であった任道(当時は殿前司所属)に命じることを提案。卿の陳桷は事前の按閲実施を、礼儀博士の周林は登歌演奏の際に楽工が小榻に座って演奏する簡略な慣行を改めるよう求めた。
- 高宗が諒闇(父の喪)にあった際、明堂行礼での作楽・受胙を停止すべきとの意見が出たが、太常寺が景徳・熙豊の故事を検証し「郊廟・景霊宮では喪中でも用楽すべき」と結論。礼部侍郎の施坰も同趣旨を上奏し、旧制復帰の詔が出された。太母(皇太后)還宮の際には、冬至・元正の朝賀で大仗・楽舞を用いる旧制の復活が翌年に持ち越された。
紹興十三年以降 臨安遷都後の本格整備(1143年-)
- 紹興十三年、亡き祐陵(徽宗)を弔う思いから臨安に円壇を新設して郊祀を実施。登歌・宮架それぞれの楽器編成を細かく規定し(登歌:編鐘・編磬各1架、柷敔2、搏拊鼓2、一〜九弦の琴各2、瑟4、篴・塤・箎・簫各2、巣笙・和笙・七星九曜閏餘匏笙各1など。宮架:編鐘・編磬各12架、柷敔2、五色の琴各10、瑟26、笙・簫各14、竽笙10、塤12、箎18、篴20など)、両浙・江南・福建・広東西・荊湖南北から旧来の大楽器を集め、不足分は軍器所で製造した。
- 楽工は太常寺の選定により登歌・宮架合わせて440人を動員し、太社・太稷・九宮貴神の祭祀にそれぞれ配分(3祭合計114人)、文武二舞は128人。
- 紹興十四年、玉磬16枚の音律を、厚さの増減で調律する方法(黄鐘を基準に各律ごとに厚みを1分ずつ増し、応鐘で1寸9分とする。清声は逆に厚みを減らす)を定め、四川茶馬司の玉材を用いた。太常博士の張晟の提案により、武舞の飾りを周礼・郊特牲の記述に基づき朱干玉戚に改めた。
- この年、徽宗への尊号奉呈に顕安の楽を新制。皇太后への冊宝奉呈(慈寧宮)に聖安、皇后冊宝拝受(穆清殿)に坤安を用いた。顕安は無射・夾鐘を宮とし(両者が律の相生で親和的とされることに由来)、聖安は大呂(母儀を尊ぶ)、坤安は中呂(婦順を明らかにする)を宮とする理論的根拠が付される。
- 翌年の正旦朝会では、元豊朝会の制(第一爵=登歌、第二爵=笙のみ、第三爵=堂上下の歌笙交互、第四爵=合楽)を復活し、和安・嘉木成文・滄海澄清・瑞粟呈祥の各曲を太簇宮で奏した。
- 給事中の叚拂らが景鐘の制度を検討。大晟楽書に基づき、景鐘は黄鐘の本源として楽の祖とし、郊祀で天子自ら斎宮から壇へ向かう際に撃ち、至陽の気を招く役割を持たせる。宮架の中央に君圍として立て、四清声の鐘磬・鎛鐘・特磬を臣圍、編鐘・編磬を民圍として周囲を囲む構成とし、高さ9尺(実測8尺1寸)とする。皇祐大楽の黍尺と太常旧蔵の黄鐘律を照合し製造。紹興十六年に完成し、左僕射の秦檜が銘を撰した(銘文の要旨:高宗の徳を称え、天地の化育と神人の和合のためにこの鐘を鋳造し、専ら禋祀に用いることを述べる)。
- あわせて鎛鐘48・編磬187・特磬48などを新鋳し、軍器所に建鼓8・雷鼓2・晋鼓1・雷鼗2・柷敔各4を作らせ、金鐘・玉磬2架も整備(玉磬は元豊期に榮咨道が造り元祐親祠で一度用いられたのみで久しく蔵されていたものを磨き直し、金鐘は新造して明堂専用とした)。皇帝は輔臣らとともに新造の景鐘・礼器を閲視し、正旦朝会の三曲を奏して試した。製造に携わった官には恩賞が与えられた。
- 刑部郎官の許興古が、廟楹の霊芝・留都の瑞麦などの瑞祥を、乾徳六年に和峴が瑞木・馴象・玉烏・皓雀の四瑞楽章を作った故事に倣い楽章化することを提案、学士の沈虚中に作曲させ太廟・圜丘・明堂に薦めた。あわせて宰執・学士院・両省官に郊祀大礼楽章の刪修を命じ、太常寺に習わせた。
- 南郊(圜鐘宮・6成、景安の歌、文徳武功の舞)、明堂(夾鐘宮・9成、誠安の歌、佑文化俗威功睿徳の舞)、景霊宮朝献(圜鐘宮・6成、興安の歌、発祥流慶降真観徳の舞)、太廟朝饗(黄鐘宮・9成、興安の歌、文武二舞は南郊と同じ)とそれぞれの宮調・成数・舞曲名を規定。歴代廟にはそれぞれ専用の楽舞(僖祖=基命、翼祖=大順、宣祖=天元、太祖=皇武、太宗=大定、真宗・仁宗=熙文・美成、英宗・神宗=治隆・大明、哲宗・徽宗・欽宗=重光・承元・端慶、いずれも無射宮)が定められた。
- 昊天上帝を祀る4大祭祀(正月上辛の祈穀、孟夏の雩祀、季秋の饗明堂、冬至の祀圜丘)はいずれも圜鐘宮・6成・景安の歌・帝臨嘉至神娭錫羨の舞。地祗祭祀(夏至の皇地祗=8成・寧安の歌、立冬後の神州地祗=同じ寧安だが異なる曲・広生儲祐厚載凝福の舞)、孟春上辛の感生帝(大安の歌)、三年一度の祫祭・時饗太廟(9成・興安の歌・孝熙昭徳礼洽儲祥の舞)、太社太稷(寧安・8成)、釈奠(大祀・凝安9成、郡邑では3成のみ)、先農・高禖・親耕籍田(各静安・景安・乾安)についても、それぞれの楽・舞の名を規定した。
- 南郊は圜鐘、明堂は夾鐘(=天宮)、地祗は函鐘(=亟鐘、地宮)、宗廟は黄鐘(人宮)をそれぞれ宮とする理由を、天官(律の相次による自然の秩序)・地官(律の相生)・人官(律の相合)の理論で説明し、いずれも商声は「剛にして殺を主る」として避けられた。文武二舞はいずれも八佾。国初に崇徳の舞を文徳、象成の舞を武功と改称して以来、祥符期の発祥流慶降真観徳、皇祐期の佑文化俗威功睿徳、元豊期の孝熙昭徳礼洽儲祥、宣和期の広生儲祐厚載凝福(紹興に儲霊錫慶厳恭将事へ改称)と、歴代で追加・改称が重ねられた沿革を記す。
- 紹興三十一年、財政上の理由で教坊を廃止し人員を放免する詔が出た。
孝宗即位後の喪礼と用楽論争(1162年-)
- 孝宗の即位に際し、車駕が紫宸殿に班・仗を設け雅楽を備えて朝饗を行おうとしたが、欽宗の喪制が明けていなかったため皷吹は用いなかった。
- 安穆皇后の祔廟に際し、礼部侍郎の黄中は「祖宗前殿での祔廟は用楽するのが国朝の故事だが、別廟奉安(安穆皇后のため)は欽宗の喪のため用楽を停止すべき」と主張。給舎の議論を経て、諸室(祖宗前殿)は用楽、別廟奉安は不用楽と決着した。名正・言周操はさらに「祔礼のための用楽は結局『安穆后のための用楽』という名を残すことになる」として、前後殿とも不用楽とすべきと主張し、これが採用された。
- 隆興元年の天申節、徳寿宮での上寿に際し、欽宗の服喪が明けたことを理由に楽の実施が検討されたが、黄中が「臣が君に事えるのは子が父に事えるのと同じで、春秋の義では未葬のうちは喪主の責任を免れない。欽宗はまだ葬られていない」と反対し、実施は見送られた。
郊祀楽工の整理と儀礼手続きの明確化(1165年-)
- 乾道改元、郊祀の再開にあたり太常洪适は「古楽は俗耳に合わず、楽工の維持に年200万緡近くを費やしている。教習を1か月に限れば十分対応できる」と上奏し、採用された。太常寺はさらに壇下宮架の人数を1割減、琴・瑟を半減するなど人員を削減。
- 礼部郎官の蕭国梁は「亜献・終献を続けて行う紹興以来の簡略化は、宗廟では容認できても郊饗では不適当。献ごとに楽の始終を分けるべき」と上奏し、採用された。
- 淳熙六年、明堂禋礼の再開にあたり五使に雅楽を貢院で按閲させた。大礼使の趙雄は「旧例では皇帝が飲福位に至る一曲のみ五使以下が起立し、奠玉帛・酌献の楽ではすべて着座して聴くのは礼として不十分」と指摘し、閲覧手順を改めさせた。あわせて礼官が紹興以来の還輦時の用楽先例の乏しさを検討し、皇祐の大饗典故と元豊・大観の旧典を折衷して南郊・明堂の儀注を整備。前三日の壇上下への登歌・宮架の設置から、皇帝の出御・奠玉幣・酌献・文武二舞・亜献終献・飲福・徹豆・送神・望燎望瘞・還大次に至るまで、各段階で奏される楽曲名(乾安・儀安・景安・誠安・嘉安・鎮安・豊安・禧安・正安・穆安・熙安・普安等)と、宮架・登歌いずれで奏するかを詳細に規定した。
皇太子冊礼の楽(1162年-)
- 紹興年間、皇太子(後の孝宗)冊立の礼を備えようとしたが欽宗の服喪中で楽の制定に至らず、乾道初年に改めて礼部・太常寺に討論させた。受冊の日、大慶殿に黄麾仗と宮架楽を設け、皇帝の昇御坐に乾安(昇りは黄鐘宮、降りは㽔賔宮)、皇太子の入殿門に明安(応鐘宮)を用いる制度を定め、乾道七年には応鐘宮を姑洗宮に改めた。
- 古くは太子が生まれると太師が管を吹いてその声の律を占ったとされ、天子の元子への教育に楽が重んじられてきた沿革を述べ、建隆期の良安、至道期の正安、天禧期の改正正安を経て、乾道の明安は天禧の故事に基づき姑洗宮を用いるものだと位置づける。
北使饗宴・雩祀・尊号奉呈などの用楽(1165-1180年ごろ)
- 孝宗は倹約を旨とし、賀正使の宴では雅楽を用いることが多かったが、上辛の斎禁と重なる場合の扱いを、平治年間の典故を参照して定めた。生辰使の上寿や親郊の散斎と重なった際、枢密副使の陳俊卿は「北使には礼をもって用楽をしないよう説くべきで、やむを得なければ上寿の日に楽を設けたのち宣旨で止めるべき」と提案し、孝宗はこれを容れつつ「宴殿で酒を進める際も用いるな」と命じた。宰相の葉顒・魏杞はこれに反対したが、陳俊卿は「相手が求めてもいないのに風を望んで媚びるのは失礼」と反論し、孝宗の意向が通った。数年後、散斎と重なった際には館伴を通じて用楽をしない方針を伝え、以後は用いない旨の詔が出された。
- 雨乞いの際、大雩には盛楽を用いるのが古礼だが、唐の開元期には特祀として楽を用いなかった先例があり、太常の朱時敏は「通典の雩礼、蔡謨の議(雲漢の詩は宣王が徳を修め災いを禳うために作られた)」に基づき、舞僮64人が玄衣を着て雲漢の詩を歌う形を提案し、詔で採用された。
- 淳熙二年、上皇(高宗)への尊号奉呈にあわせ立春の日に慶受の礼を行うにあたり、乾道の加尊号の例(宮架36架・楽工113人)より規模を拡大し、48架・楽工188人とすることが決定。大慶殿と徳寿宮それぞれに宮架を設け、冊宝発給の日には儀仗・鼓吹を整え、正安の楽で冊宝を進め、聖安の楽で上皇が御坐に昇り、太后の冊宝には正安・坤安を用いた。
- 礼部尚書の趙雄らは「車駕の出入りに楽を奏するのは国朝の旧制であり、慶典の際には簪花とあわせて行うべき」と上奏し、採用された。あわせて郊禋の礼が成った後に徳寿宮へ胙を進め上寿する際にも、天申節の例に倣い楽を用いることとされた。
- 高宗の晩年、徳寿宮への訪問・遊幸・宴遊・過宮侍宴・聖節などさまざまな機会に楽と簪花をもって奉養が尽くされたと記す。
高宗の喪と升祔、明堂用楽の再検討(1187年-)
- 高宗の崩御に際し、孝宗は三年の喪を力行し、有司が特に楽禁を設けずとも喪が明けるまで楽を聴くことを忍びなかった。金使が会慶節の賀に訪れた際も、上寿は許しつつ楽のみは輟めるという方針を貫いた。翌年再訪の際には紹興の故事に倣い、宴を館に移し用楽しなかった。
- 高宗の廟号升祔に際し、太常は「祔饗の礼には登歌・宮架・楽舞・晨祼・饋食を朝饗の制に準じて設けるべき」と上奏し、高宗廟に大徳の楽舞が新たに定められた。礼部は「虞祔の礼を純粋な古礼で行う以上、道釈(仏道の儀礼)を併用するのは礼に反する」として、その慣行の停止を求めた。
- 大享明堂に際し、起居舎人の鄭僑は「祭祀に楽は本来重要だが、先王には常と変とで異なる対応があった。舜が堯の喪に三年遏密したのに対し、後世は漢文帝の以日易月の制や漢儒の越紼行事の制を用いて久しく喪中の用楽を続けてきたが、孝宗が服喪を全うしようとしている今、大礼を行う以上は作楽もやむを得ないとしても、分献官や事前の奏告など省いてよい部分は省くべき」と上奏。太常に討論させた結果、降神・奠玉幣・奉俎・酌献・換舞・徹豆・送神は典礼どおり作楽する一方、皇帝および献官の盥洗・昇降等の楽は、備えるが奏さないこととされた。