元豊年間の大楽改定(楊傑の七失論)
- 元豊3年(1080年)5月、秘書監致仕劉几に詳定所に赴かせ楽を議させ、礼部侍郎致仕范鎮と得失を参考させることとし、几も楊傑を同議に加え景祐の故事に倣い人を選び大楽を修製することを請い、詔可された。楊傑はかねて大楽に七つの失があると論じていた。第一に「歌不永言、声不依永、律不和声」――金石糸竹匏土革木それぞれの音の性質(金声は重い、石声は温潤、土声は函胡、竹声は清越、糸声は繊微、革声は隆大、匏声は叢聚、木声は無余)を踏まえ、人声こそ中和の基準であるはずが、今の歌では一言に数律をかけたり章句が尽きても楽音が終わらなかったりする混乱があるとし、一声一言で歌うべきとした。第二に「八音不諧、鐘磬闕四清声」――虞楽・商楽・周楽における簫・磬・金の位置づけを踏まえ、鐘磬にも四子声を用い八音を諧えるべきとした。第三に「金石奪倫」――一声を諸器が奏する際に鎛鐘・特磬・編鐘編磬だけが3声を撃ち他の器を圧してしまう乱れを正すべきとした。第四に「舞不象成」――国朝郊廟の武舞六変(初挙・上党克平・維揚底定・荊湖来帰・卭蜀納款・兵還振旅、各方位象徴あり)の振り付けが盛徳を称えるに足らず方位も誤っていると指摘した。第五に「楽失節奏」――楽の始まりの翕然・純如・皦如・繹如という進行の秩序が今は失われていると論じた。第六に「祭祀饗無分楽之序」――陽律は奏し陰呂は歌うという陰陽の分を、冬至の天祀で大呂を歌わず夏至の地祭で太簇を奏さないなど守られていないと批判した。第七に「鄭声乱雅」――律呂中正の音を示す古器がありながら士大夫が講究せず賤しい工人任せになっているため雅鄭が混じっていると論じ、十二律還宮の均法を上図とともに提出した。その論では、律にはそれぞれ均があり七声が相応じ(黄鐘の均なら太簇姑洗林鐘南呂応鐘蕤賓の七声)、宮は君・商は臣・角は民・徴は事・羽は物とし、宮生徴・徴生商・商生羽・羽生角という関係、及び宮・徴にのみ変声があり商角羽に変声がない理を説いた。帝はこの図を見て鎮・几に参定させたところ、王朴・阮逸の黄鐘は李照の太簇に相当し、照の編鐘編磬には黄鐘大呂があるが四清声を欠くなど各説に問題があるとされ、鎮らは李照の編鐘編磬十二のうち律に適うものを選び、王朴の無射応鐘及び黄鐘大呂清声を加えて黄鐘大呂太簇夾鐘の四清声とし、衆楽・歌工がこれに従うことを請うた。太常は旧器を留め別に新楽を製し議論の是非を検証したいと願ったが、詔は朴楽の鐘を清声として残し銷毀しないこととした。几らは新楽が郊廟に薦めるに足るとし、明堂・景霊宮の降神楽(夾鐘均・夷則均・林鐘均を用いる旧法)が周礼の大司楽の規定(圜鐘・黄鐘為角・太簇為徴・姑洗為羽)と食い違っていることを正し、夾鐘を宮とし黄鐘・太簇・姑洗をそれぞれ角均・徴均・羽均で用いる法に改めた。また太常磬三等(王朴磬は厚く李照磬は薄く、阮逸胡瑗磬は精密だが高すぎる)を磬氏の法で調整し、鐘三等(王朴鐘は声が疾く短い、阮逸胡瑗鐘は舒やかで遠く聞こえる、李照鐘は旋蟲の制で三十六架十六枚正律相応)から新制を定めることとした。皇祐中、益州の進士房庶が古本『漢書』律暦志に基づく尺律の法を論じ、范鎮がこれを是とし、房庶に律管・量龠を造らせたが殿中丞胡瑗は非とし、鎮と几らに定めさせることとなった。鎮は「楽を定めるにはまず律を正すべき」と述べ律尺を作ったが、几の議は人声を主とし尺度に依らないもので、実質は李照の旧説に四清声を加えたものであった。楽が完成し恩賚が加えられた際、鎮は「これは劉几の楽であり臣に何の関わりもない」と辞退し、改めて上奏して、太常鎛鐘の大小軽重の法は三代でなければ作れないものだと述べ、禁中から出された李照・胡瑗の鐘律・尺を太常で照合させたところ、照の黄鐘律は朴の太簇律に、照の仲呂律は朴の黄鐘律に合致し朴楽より半律低いだけであることを見出した。鎮はさらに自らの律尺で太常鎛鐘を大小編次すれば一代の大典となし得ると述べ、太常に雷鼓・霊鼓・路鼓がなく散鼓で代用していること、笙箏が匏を用いず塤が木製で土音を欠くなど八音が備わっていないことも指摘したが、これらは取り上げられなかった。元豊4年(1081年)11月、詳定所は堂上(搏拊琴瑟)・堂下(鼗鼓柷敔笙鏞)の楽の分掌が後世乱れ、歌者が堂にありながら鐘磬を兼設し宮架が庭にありながら琴瑟を兼設する混同を正し、親祠宗廟・有司摂事いずれも堂上に鐘磬を設けず堂下に琴瑟・匏竹を置かないよう改めることを求めた。また天子の宮県が本来12虡であるべきところ隋唐以来20虡・36虡とする説が生じたことを正し、有司摂事の楽にも宮架12虡を用いること、四面に辰位に応じ鎛鐘12・磬各1虡を配し四隅に建鼓を植え24気を象ることが定められた。元豊5年(1082年)正月、開封の布人葉防が楽器律曲の不備を論じ、楊傑がこれに反駁(編鐘編磬24簨の制、管簫の数、玉磬の登歌使用、舞不立表などを批判)した。范鎮もまた黄鐘為角・黄鐘之角の別(夷則為宮の場合と姑洗為角の場合の違い)を論じ、世俗の説(太簇を黄鐘商、姑洗を黄鐘角等と呼ぶ)の誤りを指摘したが、葉防の説は世俗の夷部の説に依っており周礼の正文に基づかないため用いがたいとされた。帝は楽律が絶学であり葉防が草莱の出身で習うことが難しいとして楽正に補した。元豊6年(1083年)正月、大慶殿で初めて新楽が用いられ、2月太常は郊廟楽虡が雨雪の際は殿上に設けることとし、3月礼部は有司摂事の昊天の舞名(初献「帝臨嘉至」、亜終「神娭鍚羨」、太廟初献「孝熙昭徳」、亜終献「礼洽儲祥」)を定めた。9月礼部は、周礼の「王出入すれば王夏を奏す」に基づき、祼を作楽の前に移した以上、皇帝が罍洗に詣る際も乾安を奏すべきとし、景霊宮・南郊壝門でも同様とすることを願った。元豊7年(1084年)正月、協律郎栄咨道の請いにより奉宸庫から玉磬を選び太常に音律を審定させる詔が出た。6月、礼部は親郊の年の夏至方丘祭祀(冡宰摂事)の楽舞の規模を親祠に準じ26虡・工人306人・舞人124人とすることを願い、詔可された。元祐元年(1086年)咨道は先帝の詔に基づき製造した玉磬を廟堂の登歌に用いることを願い、許された。
元祐年間の范鎮の楽論
- 元祐3年(1088年)范鎮の楽が完成し、その楽章・律12・編鐘12・鎛鐘(衡1尺1斛1饗石で作った編磬12・特磬1)・簫笛塤箎巣笙和笙各2及び書・図法が上呈された。帝と太皇太后は延和殿に御し執政・侍従・台閣講読官に観覧させ、鎮に「春秋以後礼楽がまず亡び、秦漢以来韶武はわずかに散楽の工に伝わり、河海の上に往って還らず、先生を斉魯の間に聘しても得られず、魏晋以下は言うに足りず、鄭衛の音や華戎の器が混じり、銖黍の差や宮商の位置違いが生じてきたが、四朝の老臣たる汝独り五降の非を知り、律を審らかにして尺を生んだ」と称える詔を賜った。鎮は自らの楽論8篇(律論・黍論・尺論・量論・声器論・鐘論・磬論・八音論。律暦志にも記載)を著した。鐘論では、周官の鳬氏の鐘の制についての従来の解釈の誤り(帯の位置、舞の広狭、鼓鉦の間の誤解)を正し、自ら鋳た編鐘12の寸法(鐘口10なら長さ16、鉦は中央で上下8、鼓と舞はそれぞれ6)を示した。磬論では、周官磬氏の法(黄鐘の磬は博4寸5分・股9寸・鼓1尺3寸5分など)に基づき、当代の12磬が律に基づかず声も遠く求めがたいことを批判し、清声は経典に見えないとする説に反論、国朝の四清声は劉几が用いてから鄭衛と変わらぬものになったと論じた。また、国朝の祀天地宗廟・大朝会の宮架には鎛鐘のみを設け特磬は后廟にのみ用いる慣行を正し、宮架に鎛鐘の後ろへ特磬を加えるべきと論じた。八音論では、匏土革木金石糸竹という互いに性質の相反する八物を聖人が同じ商・宮の音で調和させることこそ楽の和たる所以と論じた。太常に下された鎮の楽に対し、楊傑は元豊中の詔(范鎮・劉几と共に郊廟大楽を詳議し完成させた経緯、神宗の睿断で郊廟朝廷に既に長く用いられてきたこと)を挙げ、鎮の一説で軽々に改めるべきでないとする『元祐楽議』を著しこれを破した。楽章については、国朝大楽の曲名は「大」を冠する慣行(大善・大仁・大英など)があるのに、鎮の「文明之曲」を献祖廟に、「大成之曲」を黄帝に、「万歳之曲」を太皇太后に進めるのは名が正しくないと批判した。宮架加磬については、唐六典の天子宮架(鎛鐘12・編鐘12・編磬12、計36虡、宗廟は殿庭と同じ、中宮の楽は大磬で鐘に代える)を挙げ、鎛鐘・特磬を併設すれば48架となり古法にないとし、皇帝出入時の撞鐘(黄鐘の鐘を撞けば右5鐘が応じ、蕤賓の鐘を撞けば左5鐘が応じる)に特磬を節とする例は聞かないと反論した。十六鐘磬の議については、漢成帝の時に犍為郡の水辺で得た古磬16枚が礼楽志に記され二帝三王の遺法であるとし、王朴楽の編鐘編磬が声が高すぎて四清声を用いなかったのが神宗朝で三律下げられ諧和したこと、周礼「鳬氏為鐘」の薄厚が清濁を生む記述からも清声は経典に見えると反論、鎮の簫必ず十六管なら四清声を含む道理も指摘した。礼部太常も鎮の楽法は一家の学で参用しがたいとし、楽は旧制のまま用いられた。元祐4年(1089年)12月、大楽正葉防が朝会二舞の儀を撰した。武舞「威加四海之舞」は3変からなり、各変で舞人が南表から進退し、干戈を執って猛賁趫速の状を作り、擦り合わせ・転身・撃刺・拝礼などの所作を経て6鼓ごとに変化し、最終的に兵還振旅を象って終わる。文舞「化成天下之舞」も3変からなり、揖譲・辞譲・謙譲の所作(初辞・再辞・固辞、初謙・再謙・三謙)を重ねる振り付けで、協律郎陳祈が按閲し節奏が詳備であるとして以後朝会で用いられた。元祐8年(1093年)太常博士孫諤は社稷の祠を親覧した際、登歌の楽が太社壇上のみに陳ばれ太稷に欠けていることに気づき、周公の祭祀法(霊鼓・帗舞・太簇応鐘咸池の歌舞)や唐の社稷用楽(20架)、開元の宮架(壇の北に別に天神を陳べ、霊鼓・歌鐘・歌虡を各2設ける盛儀)を引いて、太社太稷の壇の北に宮架・鐘匏竹を各2列し霊鼓を植えるべきと上言したが、侍従礼官の議では稷壇の楽の増設と宮架追加は行われなかった。
崇寧年間の魏漢津と景鐘
- 元符元年(1098年)11月、登歌鐘磬を元豊の詔旨(先帝の楽制)に復す詔が出た。元符2年(1099年)正月、前信州司法参軍呉良輔に音律を按協させ琴瑟を改造し登歌を教習させることが命じられた。太常少卿張商英がその知楽を薦めたためである。良輔は元豊中に『楽書』5巻(釈律・釈声・釈音・釈器の4類、計44篇)を著していた。崇寧元年(1102年)、大楽の制が訛謬残闕し太常楽器も弊壊し、琴瑟の制度も参差不同で簫篴の類は楽工が自ら備える有様で、大合楽のたびに声韻が淆雑し過度に高くなっていた。箏筑阮は本来秦晋の楽であるのに琴瑟の間に列せられ、熊羆按(梁隋の制)は宮架の外に設けられ、笙は匏を用いず舞は成功を象らず曲は譜に協わず、楽工は農夫市賈から阡陌閭閻の中で急遽招集され教習も成らない有様であった。議楽の臣は楽経が散亡し秦漢以後の諸儒の説も取るに足らないとして、広く知音の士を求めたところ魏漢津の名が上に達した。漢津はこの時90余歳、もと剰員兵士と称し、西属にて仙人李良に師事し鼎楽の法を授かったといい、皇祐中に房庶と共に善楽をもって薦挙されたが、既に黍律が完成していたため阮逸に非とされその説を伸べられなかった。逸の楽が用いられなくなった後、漢津は退いて指尺の法を叙述した書2篇を著したが、太常楽工は改作を憚りその説を主張する者はいなかった。ある者は漢津がかつて范鎮の下で使役され、その制作を窃取したのだと言い、蔡京はその説を神秘化し李良に託した。崇寧2年(1103年)9月、礼部員外郎陳暘が撰した『楽書』200巻が上呈され、礼部尚書何執中は音律を正すため講議司に送り知音律者に検証させるべきと述べた。暘の論では、漢津の楽が京房の二変四清声を用いることを、五声十二律こそ楽の正で二変四清はその蠹(害)であるとし、変宮を君とする二変・黄鐘清を君とする四清はいずれも「君は変ずべからず」との義に反すると批判した。壬辰、講議司に歴代礼楽の沿革を詳求し古今の宜しきを酌み典訓を修めるよう命じる詔が出た。崇寧3年(1104年)正月、漢津は「黄帝は三寸の器を咸池と名づけ、その楽を大巻という、三三にして九、すなわち黄鐘の律となる。禹は黄帝の法に倣い声を律とし身を度とした」と述べ、左手中指の三節三寸を君指として宮声の管に、第四指を臣指として商声の管に、第五指を物指として羽声の管に、第二指を民・角に、大指を事・徴に配し、三指を合わせた九寸を黄鐘の律とする裁管法を説き、帝の中指・第四指・第五指の各三節を用いて九鼎を鋳造し、次いで帝坐の大鐘、四清声鐘、24気鐘を鋳造し均弦裁管して一代の楽制とすることを請うた。その後13年を経たある日、帝は夢で「楽は成ったが鳳凰は至らない、それは帝の指ではないからだ」と告げられ大いに悔い、崇寧の初め漢津に指の寸を請われた際、内侍黄経臣が「帝の指を外人に示せない」として自らの手で代わりに比度させ「これがそれだ」と偽っていたことを思い出した。ここに至り改めて帝の中指の寸を出して密かに蔡京に付し、劉昺に試させたが、昺は結局漢津の初議を匿し前の議のまま長笛を一つ作って上呈し、帝の指の寸は旧より長く、長笛も今更改めがたく人目を動かすものでもなかったため、この件は沙汰止みとなった(蔡京の子蔡絛の記録による)。同年秋7月、「景鐘」が完成した。景鐘は黄鐘の出るところとされ、垂れれば鐘、仰げば鼎となり、鼎の大きさは9斛に及び、中声の極まるところとして玉屑を銅の合金に入れ精純を極め、音韻は清越、高さ9尺で9龍を拱かせ、天子親郊の際にのみ宮架の中に立てて君を象るものとされた。翰林学士承旨張康国が銘を撰し、「天造我宋、於穆不巳、四方来和、十有二紀、楽象厥成、維其時矣…」で始まる銘文が刻まれ、宋楽の始まりとされた。