宋史卷一百二十五 禮志第七十八 禮二十八(凶禮四)

士庶人の喪礼

  • 開宝3年(970年)10月、開封府の喪葬の家で道釈の威儀や異色人物の装束を用いることを禁じる詔が出た。太平興国7年正月、翰林学士李昉らが士庶喪葬制度を重定し、唐の大暦7年・長慶2年の詔(喪葬祭奠の街衢張設や金銀錦繍の飾りの禁止)を参照しつつ、子孫が父祖尊長を葬る場合の錦繍使用は禁じないが、音楽・欄街設祭・無官者の方相使用は厳禁とし、後唐長興2年の品官別の舁者・挽歌・明器の数(五品六品は舁者20人挽歌8人明器30事、七品16人6人20事、六品以下京官12人4人15事、庶人8人12事など)に依るよう定めた。同9年、喪家での音楽や令章(歌謡余興)を不孝罪とする詔も出た。景徳2年(1005年)、文武官の卒去に際する寺での鳴鐘の可否についても品階により定められた。紹興27年(1157年)監登聞鼓院范同は火葬の弊風を指摘し、貧民が葬地を得られるよう荒閑の地を措置するよう建言し、韓琦が并州で官銭を用い民の葬地を購入した例などが挙げられた。翌年、戸部侍郎栄薿もこれを継いで、貧民の火葬は禁じきれないため州県に荒閑の地を措置すべきと上言した。

服紀(喪服の規定)

  • 宋の天子・諸臣の服制は、それまで諸礼の中に散在するのみで特に一書にまとめられていなかった。高宗は外廷では日を月に易える略式、内廷では三年の礼を行い、孝宗もまた三年の制を力めて持した。皇帝の成服前後・小祥・大祥・禫祭・祔廟それぞれの服の形式(布梁冠・首絰・直領布大袖衫・布裙袴・腰絰・竹杖等から素紗軟脚幞頭・白羅袍・皁幞頭等への変化)が細かく記される。孝宗は再度三年の制を定め、二十五月にわたり喪服を用いた。金国からの弔祭使・慶賀使の応対時にも衰絰を著けて礼を行った。当時、宰執・近臣は三年の制の実施に消極的であったが、帝の意志が固く、下僚の沈清臣一人がこれを賛助した。

臣が君に服す規定

  • 中書門下・樞密使副・尚書翰林学士・節度使・金吾上将軍・文武二品以上は布梁冠・直領大袖衫・布裙袴・腰絰・竹杖を用いる第一等、文武五品以上・監察御史以上・内客省宣政昭宣知閤門事等は第二等、その他百官は布幞頭襴衫腰絰のみの第三等と、三等級の服制が定められた。宗室は外朝では常服、内では衰麻をもって喪に服す。光宗が孝宗の喪に服した際は趙汝愚の建議で百官に白涼衫皁帯を用いさせ、終制まで続いた。寧宗は光宗の喪に日を月に易える略式を用い、禫除後は紫衫皁帯とした(礼部侍郎陳宗召の請いによる)。地方の監司・州軍県鎮の長吏以下は布四脚直領布襴衫麻腰絰にて朝晡臨すること3日で除く。内外命婦は布裙衫帔・首絰、士庶は本家で3日の素服とし、婚嫁は服喪期間中も禁じない。淳熙14年(1187年)10月、将作監韋璞を金国告哀使、閤門舎人姜特立を副使とした際の三節人従の服制(大祥内は布幞頭襴衫布袴腰絰、禫服内は素紗軟脚幞頭黪色公服黒鞓犀帯など)も細かく整えられた。

喪服に関する諸議論

  • 慶暦7年(1047年)侍御史呉鼎臣は、武班や諸職司人吏が親の喪で禁門に出入りする際に素紗幞頭を包む者がいる不体裁を指摘し、文武両班以外の臣僚・職司人吏は喪服未除の間は光紗のみを用いるよう請うた。太常礼院は令文(凶服は公門に入らず、朝参の場では常服に依り色は浅く金玉飾りを用いない)に照らして審議し、詔はこれに依った。

父母の喪に服す規定(丁父母憂)

  • 淳化5年(994年)8月、卒哭前に出仕する者への戒めの詔が出た。咸平元年(998年)、三司館閣の職事者は丁憂の際必ず持服することとし、川峡・広南・福建路の官は丁憂により離任せず、喪制未了のまま代を受けた者は終制を許すこととした。大中祥符9年(1016年)殿中侍御史張廓は、京朝官が丁父母憂に際し持服の免除を陳情する風潮を批判し、以後は典礼どおり三年の服喪を行うべきと上言、詔許された。天禧4年(1020年)、父母同月に相次いで死去した場合の服喪の順序について、『礼記』喪服小記・雑記や晋の杜預・賀循の説などを引きつつ太常が議定し、通服五十四月の説を排して先後により順次除服する旧礼に改めた。慶暦3年(1043年)太常礼院は、父母の喪に貴賎の別なく三年を尽くすべきとの原則を確認し、武臣についても辺境の職にない者は終制を許すこととした。奪情(喪中の出仕)の制も定められ、文臣の諌舎以上・牧伯刺史以上は卒哭後の恩制起復、切要の職は卒哭を待たず起復、内職は仮を給するのみとし、京朝幕職州県官は原則解官して行服した。

公除と祭祀への参列

  • 景祐2年(1035年)礼儀使は、私喪の公除(喪明け)後の宗廟祭祀への参列可否について、唐の貞元6年の詔以来の先例(緦麻以上の喪は廟祭に与らない)と、大中祥符中の詳定官による見解の対立を整理し、貞元詔の原則(私喪公除者は宗廟祭祀に赴くことを許す)を確認した。慶暦7年礼官邵必は、古の臣子は父母の喪にある間は国家の大祭に与らなかったとし、南郊・景霊宮への参列を許す現行の運用を批判、唐の律文や『礼記』王制の解釈を引いて、天子が父母の喪にありながら大礼を主宰することとの違いを論じた。太常新礼では、遭喪被起の官も卒哭後の朝参は許すが、宗廟には入らず郊壇・景霊宮には吉服で陪位または摂行させることとされた。天聖5年(1027年)侍講学士孫奭は、地方の礼院・刑法司における喪服等級の適用の誤りを指摘し、開宝正礼から五服年月を編纂して仮寧令に付すことを請い、翰林学士承旨劉筠らがこれを解説して頒行し、以後喪服親疎の等級が定制となった。

出嫁した母のための服(子為嫁母)

  • 景祐2年、礼官宋祁が、前祠部員外郎集賢校理郭禎の母が再嫁した後に禎が伯叔兄弟なく独り郭氏の祭祀を継いでいたにもかかわらず解官行服したことを報告し、五服制度の「父卒母嫁及出妻之子為母」の降服規定の適用をめぐり議論となった。侍御史劉夔をはじめとする諸家の説(父の後を継ぐ者は嫁母に無服とする説、心喪を申すべきとする説)が引かれ、晋の袁凖・劉智・譙周・石苞・淳于睿らの故事、子思の母の逸話なども参照された。最終的に、父の後を継ぐ者で祭祀を継ぐ子孫がない場合は齊衰卒哭にて除服し踰月にて祭るべきとし、既に持服してしまった郭禎については既に期年を過ぎているため今後この基準に依ることとし、以後は解官して心喪を申すよう定めた。

生母のための服(子為生母)

  • 大中祥符8年(1015年)樞密使王欽若は、編修冊府元亀官太常博士秘閣校理聶震が生母の喪にあたり嫡母が存命であることを理由に持服の免除を求めた事案を報告した。礼官は晋の蔡謨・范宣の説を引き、嫡母の存否にかかわらず生母への三年の服は父による厭降の対象ではないとし、南斉褚淵が庶母郭氏・嫡母呉郡公主の喪にそれぞれ服した先例も参照して、聶震は解官・心喪三年に服すべきとした。以後、顕官でこれに類する者は「起復」と称さず単に職を釐めることとされた。熙寧3年(1070年)秀州軍事判官李定が生母仇氏の喪の追服を命じられた事案では、御史臺が、父の後を継ぐ者は緦麻三月・解官心喪、継がない者は齊衰三年正服禫と定めた法に照らし、李定が父の存命・老いを理由に持服の申請をしなかったことを咎め、緦麻の追服と心喪三年を命じた。時に王安石が李定を庇い太子中允に抜擢したが、言者により罷免された。

舅姑(夫の父母)のための服(婦為舅姑)

  • 乾徳3年(965年)判大理寺尹拙は、律・儀礼喪服伝・開元礼・儀纂・五礼精義・三礼図等では婦が舅姑に服す期間は期年(1年)だが、劉岳の書儀では近代の風習で重服とされていると指摘した。判少卿事薛允中らは、戸婚律における父母及び夫の喪中の嫁娶の禁と、書儀の舅姑三年斬衰との整合を問うた。右僕射魏仁浦ら21人の奏議は、舅姑は父母と同一であるとする『礼記』内則の趣旨、後唐で三年の喪が定められた経緯、唐会要における嫂叔・曽祖父母・嫡子婦・衆子婦・父在為母・婦為夫之姨舅等の服の増補の歴史、孝明皇后が昭憲太后に三年服した先例を挙げ、以後婦の舅姑への服は後唐の制(三年、齊斬とも夫に従う)に依るべきと結論した。

嫡孫が祖父母の喪を継ぐ規定(嫡孫承重)

  • 天聖4年(1026年)大理評事杜杞は、祖母穎川郡君鍾の喪に際し、子婦や他の孫がいる中で自身が最年長として既に斬衰を服していることの当否を礼院に問うた。礼院は『礼記』喪服小記の「祖父卒而後為祖母後者三年」の条を引き、祖父が既に卒し嫡孫が祖の後を継ぐ場合の重服規定を確認し、解官の要否も含め礼令どおり定めた。宝元2年(1039年)度支判官集賢校理薛紳は、父の生母(庶祖母)である祖母万寿県太君王氏の喪の服紀を問うた。礼官の間では、庶祖母は皇姑(正嫡)に列せられず祭祀を継がないため三年服には及ばないとする説と、薛紳は父耀卿の死後「受重於父」の立場にあり三年の服を申すべきとする説(史館検討同知太常礼院王洙の議、晋王廙の議も引用)が対立したが、詳細な議論の末、薛紳は父耀卿が別子始祖となる大宗を継ぐ立場ではなく、父の代わりに祖母を養った恩義に照らし解官・齊衰三年の服を命じられた。皇祐元年(1049年)大理評事石祖仁は、叔父従簡が祖父中立の喪に服して40日後に亡くなった事案で、祖父重服の承継について礼院に問うた。礼官宋敏求は、儀礼の「子嫁いで父の室に在れば父のために三年」の鄭玄注を引き、服は再度制せられうるものとして、祖仁が解官の上、葬に際し改めて斬衰三年の服を制すべきとし、以後の類例(既葬の場合は再喪の制服を用いる)の定式とされた。熙寧8年(1075年)礼院は、祖の重服を承継する順序(嫡孫→嫡子の同母弟→庶子の嫡孫の同母弟→庶長孫)を封爵令に依り定めた。時に廬州知事孫覚は嫡孫として祖母の服を持とうとしたが、叔父が存命のため新令により潤州知事に転じさせられた。元豊3年(1080年)太常丞劉次荘の請いに基づき、庶孫承重の規定がないことが問題となり、以後承重の順序(嫡子死して諸子なければ嫡孫、嫡孫なければ嫡孫の同母弟、母弟なければ庶孫の年長者、曽孫以下もこれに準ずる。傳襲封爵は別途礼令による)が定められた。

個別の判断事例(雑議)

  • 大中祥符8年、広平公徳彝が王顕の孫女を娶る約であったが、女が嫁ぐ前に徳彝が卒した事案では、『礼記』曽子問の孔子の答えを引き、婿は齊衰にて弔い葬後に除服、女は斬衰にて既葬または未葬でも攢を出せば除服することとされた。天聖7年(1029年)興化軍の進士陳可言は、共に選ばれた進士黄価が叔父の僧としての喪服未了を理由に落選させられたことについて、僧の親族服喪に関する明文がないことを指摘して禮官に議を求め、太常礼院は敕文(期周尊長服は取応せず)に照らし、黄価の場合は外に継がれた叔父への服(大功九月)に準ずべきとした。皇祐4年(1052年)吉州司理参軍祝紳は、幼くして孤となり兄嫂に養われた恩義から兄嫂の喪に服そうとしたが有司はこれに異を唱えた。仁宗は「近世には親の喪を匿して出仕を求める者もいるが、祝紳は養育の恩を忘れぬのだから褒めるべきだ」として服喪を許し、服闋の日に幕職知県に任じるよう命じた。

後継ぎを立てる制度(継絶)

  • 熙寧2年(1069年)同修起居注直史館蔡延慶は、実父褒が伯父斉(無子であった太尉)の後を継いで自身を儲けたが、後に斉に実子ができたため、本宗に復すよう請い、礼官はこれを許した。紹聖元年(1094年)尚書省は、元祐南郊の赦文にある戸絶の家で近親が後継を立てない場合の官による強制執行について、近親尊長による命継が既に令として定まっているため官の強制執行は不要と議した。紹聖4年、右武衛大将軍克務が故登州防禦使東牟侯克端の子叔溥を嗣として迎え、期の朝参起居に赴きつつ克端への服喪をしないことを願い出た事案では、大宗正司の上申を受け、宗室が父母の喪にある間は継嗣を求めることを禁じる詔が出た。大観4年(1110年)詔により、王安石の子雱に嗣子がなく、族子棣が既に安石の孫として恩例で任官していたことから、棣を雱の後継とすることが許された。先例として、元豊中の国子博士孟開が姪孫宗顔を孫とした事案(晋の侍中荀顗が兄の孫を孫とした故事に依る)や、王彦林が弟彦通を叔母宋氏の継絶孫とした事案も挙げられる。淳熙4年(1177年)10月、戸部は知蜀州呉拡の上申(同宗昭穆相当の子を養った場合、夫の死後に妻が理由なくその子を遣り返すことを禁じ、養子が家産を破蕩するなど過失がある場合は近親尊長の証明を経て遣り返すことを許す)を認め、公共の継嗣として定めた。