宋史卷一百十七 禮志第七十 禮二十(賓禮二)

入閤の儀

  • 唐制では天子が日々正衙に出御して群臣に見えるには「立仗」(儀仗を整える)を要したため、朔望の薦食や陵寝参拝で前殿に出御できない場合は便殿に出御し、正衙から仗を喚び宣政殿の東西上閤門を経て入る形をとった。これを「入閤」と呼び、群臣は正衙で待った後に随って入った。五代以降、正衙が廃れ入閤の礼も稀になっていたが、宋はこれを復興した。
  • 建隆元年八月朔、太祖が常服で崇元殿に出御し仗衛を整え文武百官が入閤、初めて待制・候対官(工部尚書竇儼を待制、太常卿邊光範を候対)を置き、退出後は廊下で食事を賜った。乾徳四年四月朔、崇元殿での視朝に金吾の仗衛を整え入閤。
  • 太宗淳化二年十一月、十二月朔の入閤にあたり史館修撰の楊徽之・張洎に新儀を定めさせた。前日に文徳殿(宋初は「文明殿」)に帳幕を整え、当日は文武官・百官軍校らが所定の位置に並び、御史中丞・監察御史・中書門下・翰林樞密直学士・両省官が順に整列、司天が時刻を奏し、閤門が班齊を奏すると帝が鞾袍で輦に乗り長春殿を経て文徳殿に至り、扇を開き簾を捲いて即位する。
  • 文武官の拝礼、鶏鳴(時刻を告げる儀礼)、閤門の勘契(割符照合)を経て「喚仗」(仗衛を呼び入れる)の号令が下ると、辞去する南班の官が先に退き、中書門下・翰林学士・両省官・中丞侍御史が整列、金吾将軍が細仗を率いて正衙門から入り、拝礼の後に黄道(儀礼用の道)を通って龍墀に至る。吏部侍郎が文武班簿(名簿)を執って対揖、中書門下学士・両省・御史台官が拝礼し、彈奏御史・起居郎舎人らがそれぞれ定めの位置に急ぎ進む。金吾大将軍が対揖しつつ進み、奏事石の位置で一員が「軍国内外平安」を奏上する。文武班・侍従班が順に進み、宰相が「祝月」(月の吉事を祝う言葉)を起居した後、班が分かれて退出する。
  • 刑法待制官の奏事、中書門下の「中書公事は既に奏聞済みです」という上奏、彈奏官による失儀の摘発(左右史→起居郎→閤門使→宣徽使の順に上申される仕組み)なども定められ、儀式が終わると閤門使が「放仗」(仗衛の解散)を宣し、群臣は再拝して廊下食を賜った。
  • 五月朔の入閤には黄麾仗を三百五十人増員し、文武官が中書門下の横行に随って起居する制も設けられたが、真宗の代に三度行われた後、景徳以後は行われなくなった。仁宗は知制誥李淑の議により時令を読む儀を復活させたが、礼にそぐわないとの意見により中止された。
  • 熙寧三年、知制誥宋敏求らは詳定の結果、文徳殿は唐の宣政殿、紫宸殿は唐の紫宸殿にあたり、祖宗が親朝した文徳殿入閤は本来なら紫宸殿で行うべきものだと指摘。翰林学士王珪らは、唐制では天子が紫宸殿に坐す際に正衙の仗を喚び入れて入閤とするのが本義であり、現行の閤門の入閤儀は唐の「常朝の儀」に過ぎず盛儀ではないとして、入閤の礼は以後廃止された。敏求はさらに「本朝では入閤の日にのみ文徳殿で視朝していたため、入閤儀を用いなければ文徳殿での視朝の根拠を失う」として、唐制に倣い朔望に文徳殿に御する儀を新たに定めるよう建言、翰林学士韓維らが「入閤図」を基に増損して儀を裁定した。
  • 新たな朔日の儀では、金吾将軍・判殿中省官が仗を率いて先に入り、文武官・諸軍将校が整列、彈奏御史が位置に就き、皇帝が垂拱殿から輦で文徳殿後閤に至り、班齊の奏を受けて出御、拝礼・鶏人の唱・彈奏御史の起居・金吾将軍の合班奏上(「軍国内外平安」)・宰臣の祝月(「文武百僚宰臣某ら、孟春の吉、皇帝陛下が天と共に窮まりなからんことを」の趣旨)などの次第を経て、中書・樞密が升殿、給事中・転対官・吏部兵部侍郎・刑法官が所定の位置につく。
  • 宣徽使の宣答、彈奏御史・給事中・修起居注官の奏上・退出、放仗の宣言と続き、親王使相以下の官が朝堂で謝礼し茶酒を賜る。徳音・制書・御札がある場合の扱いや、外国使の見辞の儀(重行異位で整列し、通事舎人が宣制、進奉の出入りに関する規定)も細かく定められた。この日の茶酒下賜は宰臣樞密は閤子、親王は本庁、使相・宣徽使・両省官・待制・三司副使・文武百官・皇親使相以下は朝堂で行われた。

明堂の礼

  • 徽宗の代、明堂の創建にあたり礼制局が七つの議案を上奏した。(一)古の朔告廟の慣行に倣い視朝聴朔に先立ち奏告する。(二)天子が南面して朝する本来の姿に倣い明堂の正南向きの位に出御し、聴朔では月ごとに堂を移る(閏月は門に居る)。(三)『礼記』月令の「天子居青陽・総章」など月ごとの十二堂の制を整える。(四)月令にいう季秋に来年の暦を受ける慣行に倣い、毎年十月、明堂で新暦を受けて郡国に頒つ。(五)天子が南面し諸侯・四方の国が内外尊卑により位置する古制に倣い、元正・冬至・大朝会には明堂に御し、遼使は賔礼に準じ、蕃国は四門の外に立つ。(六)明堂を布政の宮として、御札・手詔はまず明堂で宣示してから朝堂に掲げ天下に頒つ。(七)赦書・徳音は旧制では文徳殿で宣していたが、御楼肆赦以外は明堂で宣読する。
  • 政和七年九月一日、頒朔布政の詔が下り、十月一日、上が明堂の平朔左个に御して天の運行と政治、翌年の戊戌歳の暦数を天下に頒った。以後毎月朔に明堂で布政する制となった。群臣は再三、天子が斧扆を負い北面して聴朝する古礼への復帰を求めていたが、詔は当初許されず、この時ようやく実現した。十一月一日、天子は明堂に南面し百辟の朝を受けた後、平朔で頒政。百官は常服で堂下に列し、大晟楽の中、大臣が階を昇って頒布する時令を進呈、左右丞が施行を請い、宰相が制可し、頒政官が受けて読み上げる次第となり、以後常式となった。
  • 尚書左丞薛昻が熙寧以来の政事を条目に分けて月令に付し明堂で頒つよう整えたほか、宣和元年、蔡京の建言により「歳運(暦の巡り)を頒つのは正月であるべきで、十月に頒つのは秦の暦法に由来する誤り」として、季冬に頒つよう改めた。四年二月、太常の王黼が明堂頒朔布政と詔書の条例・気令の応験を六十三冊にまとめて上進した。靖康元年、頒朔布政は廃止された。

御楼肆赦(大赦の宣布)

  • 郊祀の前日、有司が百官・親王・蕃国・諸州朝貢使・僧道・耆老の位を宣徳門外に、太常が宮県・鉦鼓を設ける。当日、刑部が囚人の記録を用意し、車駕が宣徳門内の幄次に至って常服に改め、群臣が就位すると帝は楼上に出御、樞密使・宣徽使が侍立する。通事舎人が群臣を横行させ再拝させた後、侍臣が「宣勅」(勅を宣する)と告げ、金鶏(赦を象徴する鶏の飾り物)を立てさせる。太常が鼓を打ち囚人を集め、少府監が楼の東南隅に鶏竿を立て、伎人が縄を伝って登り鶏がくわえた絳幡を奪い合う。楼上からは朱糸の縄に木鶴・仙人の人形を吊るし、これに制書を乗せて縄を伝わせ、地上の画台で受け取る。
  • 有司が制書を案上に置き、閤門使が奉じて中書門下に伝え、通事舎人が北面して「有制」と宣すると百官が再拝し赦を宣する。終われば中書門下から刑部侍郎に伝わり囚人が放たれ、百官が稱賀する。徳音・赦書が内より出る場合は文徳殿での宣制の儀に準じ、御札を降す場合も閤門使が跪いて授け箱に納める作法などが定められた。真宗の代には仪仗四千人を用いる例もあった。

皇太后の臨朝聴政

  • 乾興元年、真宗崩御に際し「皇帝がまだ幼いため軍国の事は皇太后が権判する」との遺詔が出、宰相以下百官が稱賀し皇太后への慰問の礼も行われた。内東門での拝表の作法、皇太后の批答(「所請宜許」または「不許」と結ぶ)の様式などが定められた。丁謂は皇太后の自称を「予」、制令には「予」、便殿処分には「吾」と定めたが、皇太后は「吾」のみを用いた。皇帝と共に承明殿に出御し垂簾で決事し、百官の表賀を受けた。
  • 英宗即位の際、輔臣が皇太后との「権同聴政」を請い、礼院は内東門の小殿で垂簾し、両府が合班して起居・奏事する形を定めた。帝が疾のため柔儀殿東閤西室に居る間は太后が垂簾処分し「吾」と称え、両府は日々聖体を伺い政事を奏上、退いて小殿の簾外で覆奏した。帝の疾が癒えると前後殿で聴政し、両府はなお小殿で覆奏した。
  • 哲宗即位の際、太皇太后が権同聴政。三省樞密院は儀注を定め、喪服を解く前は隻日に迎陽門で日参官が起居し、五日ごとの隻日には垂簾処分、宰執が奏事の際は左右の侍衛を退けるなどの規定を設けた。緊急の事案や非時の請対、宣召による升殿も許され、礼部・御史台・閤門が御殿・垂簾の儀制を討議した。朔望六参の日は前殿で百官が起居し三省樞密院が奏事、隻日は延和殿で垂簾し太皇太后は少し西に班を移して起居を受け、宰執の奏事は再拝のみで舞蹈は行わなかった。祥瑞・辺境の勝報があれば宰臣以下が紫宸殿で稱賀した後、内東門で太皇太后にも賀を述べた。
  • 徽宗即位の際、皇太后が権同聴政。三省樞密院は嘉祐末年の英宗が慈聖太后と同聴政した故事や、天聖・元豊の垂簾故事を検討し、曾布は「今上は成人であり垂簾聴政は不要、嘉祐の故事に倣うべき」、蔡卞は「天聖・元豊はいずれも遺制による処分であり嘉祐とは事情が異なる」と論じたが、結局「嘉祐・治平の故事に依る」との旨が下った。曾布は「先に太后に奏事し、次いで皇帝に覆奏する」形が定式となったと述べている。まもなく哲宗の霊駕発引に際し太后の手書により聴政は終えられた。

皇太子の元正・冬至受賀儀

  • 政和の新儀では、前日に東門外に三公以下文武の官の次を設け、皇太子の答拝の位を階下南向きに設ける。当日、左庶子が「内厳」「外備」を奏し、皇太子が常服で出御、階を降りて南向きの褥位に立つと、三公以下が再拝し、班首(先頭の官)が「元正首祚(冬至は「天正長至」)、景福維新、皇太子殿下が時と共に休らかならんことを」と賀を述べる。左庶子が皇太子に代わり「元正首祚、公らと均しく慶ぶ」と答え、群臣が再拝する。
  • 続けて樞密院官、師傅保賔客が順に賀を述べ、最後に文武宮官が重行に整列して再拝し、左庶子が「元正首祚、皇太子殿下が時と共に休らかならんことを」と述べて群臣が再拝、儀が終わると簾が降ろされ皇太子は退出する。

皇太子と百官・師保の相見の礼

  • 至道元年、有司の建言により、皇太子に対する拝礼は両省五品・尚書省御史台四品・諸司三品以上は答拝、それ以外は皇太子が拝礼を受けるのみとし、宮官(左右庶子以下)はすべて参見の儀を用いること、宴会での皇太子の席次は王公の上とすることが定められた。
  • 師傅保との相見については、政和の新儀に前日の位置設営、軒架の楽(翼安・正安)の演奏、皇太子と師傅保・三少の対座位置などが詳しく定められている。皇太子が出御し師傅保が再拝すれば皇太子が答拝する(三少のみが見える場合は三少が先に拝する)。礼が終わると左庶子が「礼畢」を告げ、皇太子は楽の中を退出する。

宋史卷一百十七