宋史卷一百十六 禮志第六十九 禮十九(賔禮一)
序説
- 『周官』司儀は九儀の賔客を掌り擯相(取次役)が王を南面させて諸侯を朝させ、大行人は大賔・大客の礼をもって諸侯と親しんだ。君臣の関係は厳格な体統を保ちつつも仁義と威儀をもって交わり、賔主の道があった。『詩経』小雅の「鹿鳴」も臣下を嘉賔として燕する詩である。宋の朝儀は政和年間に五礼として詳定され賔礼に分類された。ここでは『宋史』編纂にあたりその旧制を記す。
大朝会
- 宋は前代の制を承け、元日・五月朔・冬至に大朝会の礼を行った。太祖建隆二年正月朔、崇元殿で初めて朝賀を受け、衮冕を着け宮県・侍衛を整えた。儀仗が退くと群臣は皇太后宮門に赴いて奉賀し、帝は広徳殿で常服のまま群臣から上寿(長寿を祝う献杯)を受け教坊楽を用いた。五月朔には崇元殿で朝賀を受け、通天冠・絳紗袍を着け元会と同様の宮県儀仗を用いた。乾徳三年冬至は文明殿、四年は朝元殿で朝賀の後、大明殿で常服のまま上寿を受け、初めて雅楽の登歌・二舞を用い群臣の酒は五行に及んだ。
- 太宗淳化三年正月朔、開元礼に基づき上寿儀を定め、法服を着けて宮県・万舞・酒三行の礼とした。真宗咸平三年五月朔、雨のため儀仗を中止し常服で長春殿にて起居、正衙に立班し宣制のみを行った。
- 仁宗天聖四年十二月、翌年正月朔にまず会慶殿で皇太后に寿酒を上げてから天安殿で朝を受けるよう詔し、太常礼院に儀制を定めさせた。五年正月朔の記録は極めて詳細で、皇太后・皇帝がそれぞれ幄から出て鳴鞭・升坐し、皇帝が皇太后の御坐前で「元正啓祚、万物惟新、尊号皇太后陛下、時と共に休らかならんことを」と奏上して再拝し、酒を進める。内常侍が「新春の慶びを皇帝と共にする」と宣答する。その後、百官が起居し、太尉が皇太后・皇帝それぞれに寿酒を進める複雑な次第(拝礼・舞蹈・宣答の繰り返し)が続き、最後に群臣が升殿して坐に着き酒三行で終える。
- 神宗元豊元年、龍図閣直学士史館修撰の宋敏求らに朝会儀注を詳定させ、敏求は『朝会儀』二篇・令式四十篇を上進、詔により頒行された。その制では、大慶殿に御坐・東西房・東西閤を設け、百官宗室客使の次を廟堂に、五輅を庭に、黄麾仗を殿の内外に配し、大楽令が宮架の楽を横街の南に展べ、鼓吹令が十二案を宮架の外に置き、輿輦・御馬・繖扇・貢物なども所定の位置に並べた。文武百官・客使が参入し、侍中の「中厳」「外辦」の奏上を経て帝が出御、宮県の楽(乾安楽)とともに即位、符宝郎が宝を奉じ、群臣が起居し、太尉・中書令・門下侍郎が表・祥瑞を奏上する等、極めて精緻な次第が定められた。
- 朝賀の後には「上寿の礼」が続き、酒を四爵にわたって進め、登歌の楽(甘露之曲・瑞木成文之曲・嘉禾之曲など)や舞(盛徳升聞之舞・天下大定之舞)を伴った。旧制では朝賀のみで帝は鎮圭を執っていたが、この時初めて上寿を廃した。元祐八年、太常博士陳祥道は「覲礼では馬は庭にあり侯氏が堂に昇って命を受ける、聘礼でも馬は庭にある」として、御馬を龍墀(宮殿前の階段)に置く旧儀の方が「賢才を尊ぶ意」に適うと建言した。
- 旧制の五月朔朝会は熙寧二年に廃止。元符元年四月、伝国受命の宝を得た際、五月朔の大朝会にあわせ受宝の礼を行うこととし、上尊号宝冊儀に準じ、前日に殿内で斎戒、翌日に大慶殿で受宝し群臣が上寿・稱賀した。徽宗は元日に八宝と定命宝を、冬至に元圭を受け、いずれも大慶殿で朝賀の礼を行った。新儀では太尉を「上公」、侍中を「左輔」、中書令を「右弼」、太楽令を「大晟府」、「盛徳升聞」の舞を「天下化成之舞」、「天下大定」を「四夷来王之舞」と改称し、刑部尚書が「天下断絶」を奏して史館に付す規定を加えた。国恤の際は朝会を廃し、視朝しない日は「不御殿」の勅を出し群臣は閤門で表を進めて祝賀するのみとした。
- 紹興十二年十月、臣僚が「元正は一年の始め、冬至は一陽の復るとき」であり歴代の礼を重んじてきたにもかかわらず、南渡後は艱難のため朝賀の礼を長らく行っていないとして、太母(皇太后)の帰還を機に元正・冬至の朝賀を復興するよう建言、詔により来年から挙行することとなった。同年十一月、権礼部侍郎王賞らが正旦・冬至の大慶受朝は大慶殿、文徳・紫宸・垂拱殿の礼制はそれぞれ異なると整理し、大慶殿の準備が多いため冬至は翌年に取り置くことを求め、翌年閤門は「汴京の故事に倣い、大礼を行う年は冬至と翌年正旦の朝会をともに廃する」と定めた。十四年九月、翌年正旦の朝会にあたり文徳殿を大慶殿に見立て黄麾大仗を三分の一減じて配備することとし、十五年正旦、大慶殿で受朝の礼が行われた。
常朝の儀
- 唐では宣政殿を前殿・正衙(古の内朝)とし、紫宸殿を便殿・入閤(古の燕朝)とし、さらに含元殿があった。大朝会でない日は正衙に出御せず群臣は「常参」と呼ばれる形で謁見したが、次第に廃れた。後唐の明宗が五日に一度宰相に随って見える「起居」の制を始め、宋もこれを継承した。皇帝は日々垂拱殿に出御し、文武官は文徳殿(「正衙」)に日参、朔望もこの殿で行い、五日ごとの起居は崇徳殿または長春殿で中書門下が班首を務めた。元豊の官制改革後は、侍従官以上が垂拱殿に「常参官」として日参、百司朝官以上は五日ごとに紫宸殿へ「六参官」として、在京朝官以上は朔望に紫宸殿へ「朔参官」として参内する制が定着した。
正衙常参
- 両省台官・文武百官は毎日文徳殿に立班し、宰相一員が押班(班列の統率)を務めた。常朝を免ぜられた官や当番の宿衛は参加せず、休暇が三日以上続く場合は「横行参假」として全員が集まった。文武班・見謝辞官の位置、御史台官の揖礼、両省官の入場順など細かな席次規定があり、宰相が閤門から出て就位し、通事舎人が「不坐」の勅を伝えると群臣は拝礼して退出した。
- 見謝辞(新任・出使帰任などの謁見・謝礼・辞去)の官はそれぞれ身分に応じ、宰臣親王使相、樞密使副、参知政事、宣徽使、宗室節度使から刺史・将軍まで、観文殿大学士から待制まで、門下中書侍郎から正言まで、御史大夫から御史まで、三師三公から尚書丞郎・左右金吾上将軍・節度使から刺史・軍職・三司副使・京朝武官まで、それぞれ入場の門や班列位置が細かく定められた。
- 垂拱殿の起居では内侍省都知・押班以下が先に起居し、以下客省閤門使、三班使臣、内殿当直諸班、長入袛候東西班殿侍、御前忠佐、殿前都指揮使以下の軍校、駙馬都尉、諸王府僚、殿前都軍使都頭、皇親将軍、行門指揮使と順に起居する。前殿に出御しない場合は宰相・樞密使・文明殿学士・三司使などが同班で入る。崇徳殿(紫宸殿)に御する場合は樞密使以下が先に班に就き、宰相・参知政事が最後に入るなど、殿ごとに次第が異なった。
- 早朝では宰相・樞密・宣徽使が起居の後に升殿して聖体を問い、宰相が奏事、樞密宣徽使は宰相の奏事終了を待って再入奏事する。三司・開封府・審刑院・群臣も順に登殿する。見謝辞の官はその後に庭で謁見し、見・謝・辞の順で行われた。国に大慶や瑞祥、出師の勝報があれば樞密使が内職軍校を率いて賀を致し、閤門使が宣答、宰相が致辞すれば宣徽使が宣答する次第も定められた。晩朝では宰相・樞密・翰林学士の当直者と近侍執事の臣が参内した。
- 乾徳六年九月、旬休日には講武殿(崇政殿)に出御し近臣のみ早参する制を始めた。開宝九年四月、旬休日は視事しない詔が出たが太宗即位後は旧に復した。視朝の後は服を改め崇政殿に出御し、群臣の告謝、軍頭引見司の奏事、三班審官院・流内銓・刑部・諸司の引見官吏などを扱う「後殿再坐」があった。
- 淳化三年、常参の官の違反行為(朝堂での私礼、待漏(開門前の待機)での作法違反、笏の持ち方、行立の乱れ、私語、無断離席、廊下での飲食の乱れ、正衙門以外からの出入り、非公事での中書への立ち入りなど)十五条を申し明らかにし、違反者は俸給一月分を没収、抗弁する者は貶降とする厳格な規定が定められた。
- 景徳二年、光禄寺丞の錢易が「文徳殿の常朝班が三四十人に満たないのは職務優先で五日起居のみに出席する者が多いためだ」と指摘し、三館秘書閣・尚書省二十四司・諸司寺監の朝臣にも文徳殿の常参を義務付ける詔が出た。大中祥符二年、御史知雑の趙湘が「常参官が朝参に整然と赴かない」現状を報告し、待漏院での点呼強化を求めた。天禧四年十月、中書門下が唐の延英殿の隻日・双日の視事制に倣い、三日または五日ごとの臨軒聴政と隻日視事の制を提案、詔により礼儀院が「隻日は視事、双日は不坐、長春殿または承明殿で内殿起居のみ行う」という細則を定めた。
- 康定初年、中書・樞密・三司の大節・大忌には一日の休暇を与え、小節・旬休の際も後殿の奏事は五班を超えないよう規定した。神宗即位後、御史中丞の王陶が「皇祐の編勅では宰臣が押班すべき」と主張したが取り上げられず、当時の慣行では宰相が垂拱殿の奏事の後に文徳殿へ赴かない例が多かった。王陶は韓琦・曾公亮が押班を怠っていると弾劾し、両者は「唐や五代の会要では月九回開かれる延英殿の日のみ宰相が正衙班を押すべきとの故事があり、旧来からの慣行に外れない」と反論した。司馬光が王陶に代わり中丞となり、宰相の押班を旧制通り実行するよう求め、詔により「春分は辰の初刻、秋分は辰の正刻まで垂拱殿を退かなければ文徳殿には赴かなくてよい」と定められ、御史台が放班を告げる制となった。
- 熙寧六年正月、西上閤門副使の張誠一が垂拱殿常朝の入場順の煩雑さ(内侍十八班、宰執樞密の大班、親王、侍衛軍都指揮使、皇親使相以下十班など)を指摘し、班の統合(親王を一班、侍衛馬歩軍都指揮使を一班、皇親使相以下刺史までを二班とし計六班減らす)を提案、採用された。同年九月、引進使の李端慤が「朔望に文徳殿で視朝するのは酷暑寒冷の折に煩雑であり、紫宸殿の朝はほとんど行われていない」として、朔日は文徳殿、既望(十六日)は紫宸殿とする案を出し、これも採用された。
- 元豊八年、諸三省・御史台・寺監長貳・開封府推判官などの参内頻度(六参・望参・朔参)が職務の内外により整理された。哲宗元祐四年、戸部尚書呂公孺の建言で朔参官が望参にも、望参官が六参にも兼ねて出席する制が定められたが、五年に権侍郎は日参とされ、紹聖四年には御史台の言により元豊の原則(日参・六参・望参・朔参の区分を厳格に保つ)に戻された。政和の詳定五礼新儀には文徳殿月朔視朝儀・紫宸殿望参儀・垂拱殿四参儀・紫宸殿日参儀・垂拱殿日参儀・崇政殿再坐儀・崇政殿仮日起居儀が定められたが、その文は伝わらない。
- 南渡後もこの制度は概ね継承され、乾道二年九月、閤門が垂拱殿四参(宰執・侍従・武臣正任・文臣卿監員郎・監察御史以上)の細かい入場順(知閤以下、御帯環衛官、忠佐、殿前司員僚、皇太子、行門、樞密学士待制、親王、馬歩軍都指揮使、使相など)を定め、殿中侍御史の位置に関する調整も行われた。淳熙七年九月、日参の際は宰臣の宣名(名を呼び上げること)を免除する詔。嘉定十二年正月、臣僚が「近年、常朝を後殿四参に改めることが多く、正殿・後殿ともに四参が疎かになっている」と指摘し、常朝・四参の礼を厳しく行うよう求め、詔により従われた。
- 群臣の見・辞・謝の礼は初め正衙で行われていたが、淳化二年、知雑御史の張郁が「正衙は外朝であり、辞見・謝の官はまず正衙に詣で、御史台が姓名を閤門に報告してから対面が許されるのが旧制だが、乾徳以後は先に中謝を行い翌日に正衙へ赴くよう改められた」と述べ、内諸司の遥領刺史・閤門通事舎人以上の新任者も正衙に赴くべきことを主張、採用された。
- 元豊の朝参制確立後、侍御史知雑事の蒲中行は「文徳殿の正衙制は常朝の名のみを残し、横行の慣行も理に合わない。有司の対応が不十分で正すべきである」と指摘し、垂拱・内殿での日参と文徳殿常朝が並存する矛盾を批判、詳定官制所も同意し「今の常朝正衙・横行参假の儀は形骸化しており、辞見謝の官が正衙を経る故事は天子御殿の日に限るべきだ」と結論、これにより常朝正衙・横行の儀はすべて廃止された。
宋史卷一百十六